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第17話

「あの、今日は最後までできなかったけど……俺、こういうこと、もっとちゃんと勉強するから」 「そう、じゃあその経験は、次の人に活かしてあげなさい」  さらりと泉は応えた。 「次?」 「僕は基本、十代、二十代の子とは寝ない主義だから」 「えっ?」 「今日はたまたま縁があったから。Oさんのことで大変だったみたいだし、少しでも君の気分がましになればなって思ったの」 「え、ねえちょっと待って。じゃあ……これで終わりってこと?」 「だって、付き合ってくれなくていいって云ったのは葵くんだよ?」  葵の顔がさっと凍りついた。 「そうだけど……でも、この一度きりなんて思わなかった」 「何度も会ってセックスするってなったら、付き合ってるのと同じことになっちゃうよね」  もちろん泉は、本気でそう思っているわけではないのだが、目の前の若い子を云いくるめるためにわざとそう云った。フェラチオだけでセックスと云えるのかどうかも、意見が分かれるところかも知れないが、この場ではそう分類した上で話をしようと思った。少なくともこの経験で、セックスというものを肌で感じ、学ぶことできたはずだ。しかも最後の最後の、本当に大事なところはとっておいてある。  葵を短期間の遊び相手にすることはできない。セックスを知ったばかりの子には付き合うことと、遊ぶことの区別がまだつかない。自分には本気で恋愛する気もない。この子に大人の爛れた付き合い方を教え込んで、最終的に突き放すなどいうことはしたくなかった。 「それに、僕には付き合ってる人がいるって初めに云ってあったでしょ」  泉の言葉に葵は肩を落とし、これ以上ないぐらいに落ち込んだ様子を見せた。 「最後までしたいんだよ。これで終わりなんて嫌だよ。泉さんと対等にセックスしたい。今日してくれたことのお礼がしたいんだもん」 「そんなことは考えなくていいから。ちゃんとした恋を他で探しなさい」 「恋ならしてる。泉さんに」  真っ直ぐな眼でそう云った青年の態度をいじらしくは感じたものの、泉は余計に、葵との逢瀬はこれっきりにしておいた方がいいと思った。葵からは、深月のように、下手に付き合ってこじらせると面倒なことになりそうな気配がした。  単なる情事の繰り返しを恋愛と取り違えてしまうことは、ある程度経験を積んだ大人でも普通にあることで、若ければ尚更だ。頭の良し悪しは関係ない。大人の男が金をつぎ込んだ女から離れられないように、若者は経験と時間をつぎ込んだ分、往生際が悪くなる。こんな若い子を自分のような人間に固執させてはいけないと泉は思う。 「十代や二十代とは寝ないって云うけどさ、じゃあ三十代になったらいいの?年齢にそんなに意味があるわけ?」 「年齢が全てじゃないけど、少しずつ色々なものの見方ができるようになったり、心に余裕を持てるようになったりするのは、そのくらいからじゃないかな。葵くんはまだ若いけど、三十代に入る頃には、きっとたくさんの人からモテてるはずだよ」 「三十代なんて、想像もつかないよ」 「まあ、どうしても今すぐ年上と恋愛したいんだとしても、相手は僕以外の人にしなさい。君みたいな若い子が好きで、しかも常識のある優しい男は僕の知り合いにもたくさんいる。そういう人たちといい恋愛をしていけば、きっと葵くんみたいな子は幸せになれるよ」 「嫌だ。泉さんに好かれたい」  何としても欲しいものを手繰り寄せなければという必死さで葵は云った。 「どういう人間になればいいのか、足りないところを教えてよ。泉さんはどういう人が好きなの?」 「ちゃんとした仕事を持ってる人。引き際を心得てる人。それから自制心と余裕がある人」 「じせいしん?」  その問いを泉は無視した。 「あと一番大事なのは子供が好きってことかな。自分の子供を持ったことのある人なら尚いい。なかなかこういう人とは付き合えないけど」  その答えを聞くと葵は枕と掛布団と引き寄せ、そこに顔を押しつけた。初めは何かを考え込んでいるのだろうと泉は思ったが、肩が震え出したのを見てぎょっとした。 「え?何……泣いてるの?」 「うるさい」 「ちょっと待ってよ。今の子ってこんなことで泣くの?」 「だって俺なんか眼中にないってことじゃん。仕事とか子供とか云われたってさあ、俺まだ十八だよ?どうしろって云うわけ?ふられる原因が、あなたより遅く生まれたからだなんて、そんなの納得できないよ」  葵は眼に涙を溜めたまま、脇にあったもう一つの枕を拳で力任せに何度か叩くと、掛布団を頭から被って隠れてしまった。  これまでも恋人や遊び相手に泣き落としという手を遣ってこられたことはあるが、そういう時の相手は女の子で、年下とはいえ、男に本気で泣かれたことは今までない。プライドというものがこの子にはないのだろうか。葵は他の十八歳の子たちより、少し精神年齢が低いのかも知れない。 「あのさ……僕が云うのもあれだけど、恋愛に限らず、世の中思い通りにいくことばっかりじゃないんだよ」 「よく云うよ。どうせ泉さんは告白してだめだった経験なんかないんでしょ」 「何決めつけてるの。そんなわけないじゃない」 「嘘吐き。ふられた経験がないからそんな残酷なこと云えるんだよ」 「残酷、って……ただ僕は理解してもらおうと思ってるだけで」  布団の外と中で二人は話し合っていた。これじゃあまるで、自分の方が若い子を弄んで捨てて行こうとしているひどい男みたいじゃないか、と泉は思った。やはり相手がこれだけ若いとどうしても罪悪感が湧いてくる。泉はとてつもなく深い溜息を吐きそうになるのを、寸前で堪えた。 「……僕だって大学生の時に、ずっと好きだった親友にふられてる。友達としてならいいけど、男は無理だからって云われてね」  葵が布団の間からちらりと大きな瞳を覗かせた。 「三十歳で結婚したけど、今年の二月に妻は子供を連れて家を出て行ったよ。妻のことももちろん好きだったけど、血の繋がった子供と離れるのが一番つらかった」 「……泉さん、子供いるんだ?」 「うん、息子が一人ね」 「何歳?」 「五歳。早生まれだからもうすぐ六歳だよ」  葵は上半身を起こさずにごそごそと布団から這い出てきた。 「子供と会えないのってつらい?」 「うん。最初はこの先、本気で生きていけないかと思ったよ。多分、離婚することになるだろうけど、そう簡単に親権も監護権も渡すつもりはないよ」 「え、だって、泉さん毎日仕事してるんでしょ?なのに……子供の世話とか、大変じゃないの?」 「大変だよ。それが幸せなんじゃない?」 「そんなに……好きなんだ?自分の子供のこと」 「もちろん。愛ってやつだよ」 「じゃあ俺の父親は、そんなに俺のこと好きじゃなかったんだな。初めから愛情なんか、なかったのかも」  そんなことない、と云えたら楽なのだけれど。そう泉は思った。だが葵の両親の間にどんな事情があったのかが分からない以上、他人である自分が矢鱈なことは云えない。それにこの子は、もう根拠のない安っぽい慰めを云ってやるべき年齢でもないと思った。 「君のお父さんのことは僕には分からないよ。でもきっと、後悔したんじゃないかと思うな」 「でもきっと、もう忘れられてる」  葵はわざと泉と同じ言葉を遣ってそう云い、自嘲気味に笑ってみせた。こういう表情を見せられると、先程までの子供っぽさは演技だったのではないかと思ってしまう。 「俺、小学校の時、クラスでハブられてた時期があってさ。その時よく妄想してたんだよ。学校が終わって門を出たら、金持ちになった父親が高級車で俺を迎えに来てて、周りがびっくりして……っていうやつ。あれ、マジでそうなったらいいなって思ってたからね。流石に中学に上がる頃には、そんな夢みたいな展開ないだろって思うようになったけど……それでも入学式や卒業式なんかでは、もしかしたら保護者席の後ろの方で、こっそり俺を見に来てくれてくれてるんじゃないかって、まだ期待しちゃってたよ。うちの母親は父親について一切教えてくれなかったから、余計にそういう妄想が……けど、ばあちゃんがこっそり、一枚だけ残ってた昔の家族写真を俺にくれたから、それに似た人を眼で探してた」 「そう……今でも会いたいと思ってるの?」 「うん。一度でいいから話してみたい。でもその写真……母さんに見つかって捨てられちゃって。ばあちゃんは、いつか父ちゃんに会えるといいねって云ってくれてたけど、一昨年、病気が分かって、結局去年の十二月に死んじゃった。俺が大学の指定校推薦に合格してすぐだった」  そこで葵は言葉を切った。  この話も嘘であればいいのに。今まで聞いた葵の父親の話が、全て自分の気を引くための嘘であれば自分の罪悪感も目減りするのに。  成長の節目の度に、かすかに抱く期待を裏切られてきた、目の前の若者の切なさを泉は思った。  血の繋がった二歳の子供を置いて出て行き、ずっと無関心でいられる男の気持ちが泉には分からない。碌でもない男である可能性は充分にあった。たとえば暴力的であったり、浮気をしたり、過度に無責任であったりだ。それならば出て行って正解だろう。  いや、実はそうではなくて、父親はやむを得ない事情で二歳の葵を置いて行ったけれど、ずっと息子に会いたくて会いたくて連絡をし続けているのに、母親がその一切を断絶していたら。そんな可能性もある。  放っておけない。  同情心と云えば確かにそうなのかも知れなかった。けれどこの時湧いてきた父性愛の交じった力強い庇護欲に、泉の美学は一瞬、圧倒されてしまった。  泉は葵の頭を何度か撫でると、自分も寝台に横たわり、手招きをした。  葵は不思議そうな顔をしていたが、泉が一緒に眠るつもりだと分かるとまだ少し潤んだ眼をしたまま微笑んだ。 「腕枕してくれる?」 「えーやだよ、あれ腕痛くなるもん」 「ちょっとだけ。お願い、やってみたい」 「はいはい」  その時泉は、自分よりも息子の海晴の方がこの若者の年齢に近いことに気づいた。  十八歳の息子はどんな姿で、何を考えてどう生きるのだろうか。その時、自分は彼の人生にどういう形で手を差し伸べてやれるだろうか。

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