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第18話
約束していた通り、泉は結城を車に乗せ、箱根神社に遅めの初詣へ行った。
二週間前と同じように、結城はごくシンプルな恰好でやって来た。ほぼ黒に近い紺色のチェスターコートの下にグレーのセーターを合わせ、スニーカーを履いていた。そして、この日の結城は髪を切って現れた。襟足がすっきりして、長かった前髪が眼にかからないようになっている。髪色も、一見、以前と変わらない黒髪にだったが、アッシュカラーを入れたらしく重たい印象がなくなっていた。
「あの、温かい飲み物買って来たので、良かったらいかがですか?」
最初の信号待ちの時、結城が緑茶と紅茶のペットボトルを取り出して、そう訊ねてきた。
「ありがとう」
そう云って泉は手を伸ばして結城の髪にさらりと触れた。それから緑茶のペットボトルを選んだ。
「髪、切ったよね。色も似合ってる」
結城は少し恥ずかしがりながらも、柔らかい表情ではにかんだ。以前の逢瀬から少し日にちが経っていたため距離感を取り戻したいと思っての泉の行動だったが、心配は要らないようだった。
結城と会えれば行き先などどこでもいいというのが泉の本音だ。初詣という大義名分を果たし,
数時間後には、この体を抱いているだろうと思うと一瞬、熾火のような性欲が揺らめいた。
「晴れて良かったね。やっぱり寒いけど。使い捨て懐炉たくさん持って来たから、使ってね」
「ありがとうございます。あと……泉さん、すみません。私、運転できないんです」
「えっ、どうしたの急に」
「今日は長距離ですから、本当は交代で運転した方がいいですよね。実は私、免許持ってなくて」
「ああ、そんなのいいよ。僕が車で行こうって云い出したんだし。でも結城くん、そういうことちゃんと気にしてくれるんだ」
だから気を遣って飲み物を買って来たのか、と泉はすぐに理解した。それから、恐らく帰り際にはガソリン代を支払うなどと云い出すのだろうな、とも思った。
以前、結城を自宅に招いた時も、彼はビールの缶をちゃんと水洗いして捨てたり、使った後の洗面台の水滴をきちんと拭き取ったりしていた。アパートに送って行った際も、座席周辺にごみが落ちていないか眼できちんと確認してから車を降りていた。いかにもやっていますよ、という感じではなく、ごく自然な動作の流れとしてできるのがこの男の美質だと思った。
道中、結城は泉から教えてもらったフランス映画を、少しずつ観ているのだという話をしてきた。『アメリ』を観てクリームブリュレが食べたくなったとか、『最強のふたり』はアメリカの映画だと思っていたとか、他愛のない話ばかりだった。
芦ノ湖が見える駐車場に車を停め、二人はその近くにあった小さなレストランで軽食をとった。神社へはそこから歩いて向かうことにした。
「結城くん、首寒くない?これ良かったら使って」
車を降りる前に泉は後部座席から、カシミヤの白い襟巻を取り出した。
「でも、泉さんが」
「僕はハイネックだから大丈夫。巻いてあげようか?」
「いえっ、すみません、ありがとうございます」
結城は泉から襟巻を取って、自分で素早く首に巻いた。人目があるところで、距離を縮めるのは恥ずかしいと思っているらしい。
「晴れてるから富士山がよく見えるね。この辺りは詳しかったりする?きっともう何回か来てるよね?三社参りとかしたことある?」
「いえ、箱根自体、かなり前に一度来ただけで」
「えっ、そうなの?じゃあ今日はゆっくり見て回ろう」
前回泉の家に泊まった時、結城は自分の地元を東京の郊外だと明かしてくれた。大学も自宅から通っていたという。箱根なら家族旅行や友人たちとの日帰り旅行で行くこともあると思ったが、あまり旅行などはしなかったのだろうか。
手水舎に寄ってから、大きな杉並木を左右に見ながら正参道の階段を登り、途中の曽我神社に参拝を済ませ、本殿へ向かった。
「こういう静かなところ、すごく久しぶりです。空気がきれいですね」
結城の息が白く輝く。こういった場所の静謐で澄んだ空気がこの男にはとても似合う。今日の結城がこれまでで一番晴れ晴れしく見えるのは、髪を切った所為だけではないだろう。
結城は都会の喧騒からずっと離れたところに住むべきだ。余計なことに命を傷つけず、心安らぐ場所にいて欲しい。勝手にそんなことを泉は考えていた。
「泉さん、お賽銭は十円より五円の方がいいそうですよ」
「そうなの?」
「十円だと『とおえん』、縁が遠いって意味になっちゃうから」
「えーっ、そうなの?僕ずっと十円にしてたかも。五円あったかな」
結城は慎ましやかに二礼二拍手一礼を済ませ、泉と眼を合わせてから境内を離れた。
その後で、お守りや絵馬が置いてある社務所を覗いた。
泉はおみくじを引かない。子供の頃は参拝の度に引いていたが、どこかの神社で凶が出てから引かなくなった。代わりに絵馬を書こうと結城を誘うと、彼は明るい表情で承知した。
「何て書くの?」
「家内安全です」
「絶対嘘でしょ」
「見ちゃだめです」
いつも遠慮がちで控えめな結城がいたずらっぽい笑みを浮かべてそう云うので、泉は大人しく引き下がった。
泉が願うことは一つしかない。海晴が幸せでありますように。それを差し置いて、一体他に何を願うことがあるだろうか。
結城は絵馬を掛けると泉に微笑みかけた。首元の白い襟巻の所為か、結城の顔が明るく見える。白は彼によく似合う。結城は下を向いて咲く白い花のようだった。泉は以前、夏に白いギボウシを見たことがある。その雰囲気が結城にはぴったりだった。
「あの、すみません、ちょっと思い出したことがあって、もう一度行って来ていいですか?」
結城は社務所を指してそう訊いてきた。
「買い忘れ?じゃあ僕も」
「いいえ、どうかここで待ってて下さい」
結城は小走りで社務所へ戻り、五分ほどして戻って来た。
「これ、良かったら」
袋の中には白い交通安全のお守りが入っていた。
「泉さん、仕事の時も車乗りますよね。だから」
「えーいいの?ありがとう」
自らの逡巡を即座に掻き消して、泉はそう答えた。本当は途惑っていた。情事のために付き合っている相手とは、形あるものを何も残さないのがいいというのが泉のルールだった。未練は眼に見えるものに宿る。けれどこんなきれいな贈り物をもらったのは初めてで、何となく結城のような相手であれば受け入れてもいい気がした。
引き返す道中、階段を下りながら結城は平和の鳥居を指し示し、
「あっちに行ってみましょう。あれ、有名な鳥居ですよね」
と泉を振り返った。その笑顔がやけに眩しく見えて、泉は何だかこのまま彼が神様への捧げものになってしまう気がして落ち着かなかった。
この笑顔が好きだ。今すぐにでもこの男と手を繋ぎたい。吸い込まれそうな黒い瞳をもっと間近で見つめたい。雨垂れのような吐息を早く耳元で聞きたい。そんな欲求が胸をかすめると、後は次々と神の聖域で考えるには相応しくないことばかりが頭をよぎり、早くここを跡にしなければ罰が当たると泉は思った。
「鳥居の前で写真を撮りたい?」
「いいえ、ここから眺めるだけで充分です。やっぱり人気のスポットだから並んでますしね」
結城は少し離れた位置から鳥居や湖を眺めると、満足した様子でかすかに溜息を吐いた。
「君は神様を信じる?」
泉のその質問に、結城はちょっと考えた後で、
「いるんじゃないでしょうか」
と答えた。
「本気で?」
「うーん、私はどこかの宗教を信じてるってわけじゃないですし、色々な考え方があると思いますけど……そうですね、例えば、小さい子供ってサンタクロースを信じてるでしょう?それって見ている大人にとっても、微笑ましくて幸せなことだと思うんです」
「うん、まあそうだね」
「私は神様も同じで、いないって思うより、いるかなって思う方が、世の中が少し良いものになる気がするんです。ただそれだけ。けど、もし神様がいたとしても、いつでも優しいわけじゃないとも思ってます。時々、生きていくのが怖くなるぐらい残酷なことがこの世の中で起きるのも確かですから」
君にとって、一番残酷だったことって何?
そう訊こうとして泉はやめた。そんなことを訊く必要はないし、そんな思い出があったとしても、自分といる時は忘れていて欲しかった。
湖を行き来する遊覧船が見えたので、携帯電話でスケジュールを調べてみたが、どの乗り場に向かうにしても、待ち時間が生じてしまう。この寒い中、ただ手持ち無沙汰に外で待ち続けるような忍耐力は泉たちにはなかった。
「先に計画しておけば良かったね。ごめん。代わりに手漕ぎボートはどう?車を停めたところから乗り場が見えたよね。行ってみる?」
歩きながら泉がそう訊ねると結城は少し考え込む様子を見せた。
「もし興味なければ他の場所に行くのでもいいよ?寒いしね」
「いえ、あの……男二人でボートとか、変に思われないかなって」
「何だ、それだったら僕は全然気にしないな。何ならスワンボートの方に一緒に乗ってもいいぐらいだよ」
結城はそれを聞くと軽く噴き出し、くすくすと笑った。
「本当ですか?」
「えーだって、結城くんがやってみたいかどうかの方が重要じゃない?別に、誰かに迷惑かけることでもないし」
結城は眼を伏せて少し考えていたが、やがて顔を上げた。
「私、乗ったことないんですけど、それでもいいですか?」
「そうなの?じゃあ尚更乗ってみなきゃ」
「じゃあ、お願いします」
「うん、ボートを漕ぐのは僕がやるから」
「あれ、スワンじゃないんですか?」
「えっ……」
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