予定がなかったその週の日曜、久々に泉は自分のためだけに時間を使った。スポーツジムへ行き、ランニングマシーンと水泳で汗を流した後、白石に連絡を取り、彼の店へ行って遅めの昼食をとった。泉の食事が終わった時は既にだいぶランチの時間を過ぎていたため、他の客の姿はなかった。 「この前、ありがとう。結城が素敵な店だって云ってたよ」 「おお、そっか、嬉しいなあ」 「うん、あの青いカクテルも気に入ったみたい」 「良かった。……でもあの日さあ、嫉妬してたよな」 　どきっとして泉は咄嗟に、何が、と口走った。 「結城くんが俺に。昔、俺たちの間に何かあったんじゃないかってかなり気にしてる感じだったよ。結構質問攻めだったじゃん、彼。実はお前がトイレに立った時にさ、本当に泉さんのこと、好きだったことないんですか、ってはっきり訊かれた。今も昔も本当に何もないって云っといたけど」 「えっ？そうだったの」 　そんなことは知らなかった。泉が気にしていたのは、自分の嫉妬を白石に勘づかれていないかということだけだった。確かに結城は自分に好意の片鱗を示してくれているが、嫉妬を露わにするような男ではないと思う。結城には友達がいない。だから自分たちの一般的でない恋愛事情を明かせるのが嬉しくて、単純に純粋な興味本位で訊いたのではないだろうか。どちらかと云えば、相手に本気になりかけていて危ないのは自分の方だと泉は思う。 　あれこれと話をしているうちに午後三時を過ぎ、そろそろ帰ると泉が告げたところ、白石は不意にシャンパーニュの白とロゼのワインを一本ずつカウンターに置いた。 「あげる」 「えっ、どうしたの？」 「こういうの、お年賀で毎年もらうんだよ。良かったらおうちデートのお供にどうぞ。箱とかはないからこのままで悪いけど」 「えーいいの？何か悪いなあ」 「なあ俺さ、これでもお前のこと本気で心配してたんだよ。お前、親友と家族を一気に失ったようなもんだったろ」 「うん……まあ」 「あの時だけは本気で抱いて慰めてやろうかと思ったけど」 「うん、その気持ちだけで、充分」 　冗談だと分かっているので、二人とも笑った。 「あの結城くんて子のことは俺には正直云ってよく分からない。必要以上に礼儀正しいし、控えめだし、まあ影がある感じもするけど、お前を見る時の眼は明るかったから。まあ、とにかく、お前が気に入った相手ならいいと思うよ。樹里ちゃんには悪いけど、俺はお前が誰かといて少しでも元気を出せるなら応援したいから」 「うん。ありがとう」 　コインパーキングに戻ったところで葵からメッセージが送られてきているのに気づいた。これからアルバイトの面接に出かけるという報告を受けた。母親に学費以外の金銭的負担をかけないようにするとなると、基本的にバイトをしないと、彼の生活は成り立たない。葵の予定など正直どうでも良かったが一応、頑張って、と一言だけ返信しておく。それからふと、今日、結城はどうしているだろうかと考えた。 　週末に予定が入っていると云っていたが、今はもう日曜の夕方になろうとしている。 　もしかしたら、もう用事が済んで結城は家に一人でいるかも知れない。車なら、ここから彼のアパートまではそう遠くない。行ってみて、もし彼が帰っているようであればうちに誘ってみるのはどうだろうか。 　まだ用事の最中だった場合、下手に連絡をすると気を遣わせてしまうので、泉は結城の携帯には連絡を入れず、直接彼のアパートへ向かうことにした。不在だったら、帰ればいいだけのことだ。車には先週もらった交通安全守をぶら下げていた。信号待ちの際などに、それを眺めつつ、ずっと泉は結城のことばかり考えていた。 　後から考えてみると、これは完全に浮かれた行為だったと思う。無駄足を踏む可能性の方が高いにも関わらず、もしかしたら会えるかも知れない、という気持ちだけで、ほぼ勢いに任せて行動を起こしたのだから。結城が迷惑がることも考えていなかったし、誰かを家に呼んでいる可能性も考えていなかった。 　二十分ほどで結城のアパートへ到着し、泉はインターホンを押してみた。が、応答はなかった。格子付きの小窓は磨り硝子だったため、覗いても中の様子はよく分からない。だが、電気は点いていないし、人の気配も感じなかった。まだ用事から帰っていないのか、それとも今ちょっと近くに出ているだけなのか。仕方ないな、と思い、泉は車へ戻った。そしてポケットから出したキーをイグニッションに差し込もうとしたその時だった。 　アパートの敷地内に入って来る二人の若い男がいた。最初に泉の眼に入ったのは結城だった。彼の隣には、黒い服を着た同い年くらいの男がいる。二人並んでスターバックスの紙カップを手に持ち、結城は微笑んで相手の話に相槌を打っていた。泉の車が停まっていることには気づいていない様子だ。結城は鍵を差し込んで部屋の扉を開け、黒い服の男を中へ招き入れた。 　泉は動けなかった。あの男は誰なのか。結城の兄弟なのか、友人なのか。そうでなかったら誰なのか。ステアリングに手を置いたまま、泉はしばらく茫然と車の中から結城の部屋の扉を見つめていた。 　四時頃になると冬の空は夕方の色へ変わっていく。十分経っても二十分経っても男は出て来なかった。三十分近く経った時、泉は車を出て、もう一度結城の部屋の扉の前に立った。 　貧相なその扉にほとんど遮音性がないことを分かっていて、泉は恐る恐る耳を近づけてみた。ちょうどタイミング悪く敷地のすぐ横の道をバイクが通り過ぎ、その音で一時何も聞こえなくなった。泉は周囲を改めて見回してから、再度耳を欹ててみた。 　初めの数秒は何も聞こえなかった。だがそのまま意識を集中していると、男たちのかすかな話し声を聞き取ることができた。部屋の奥で会話をしているようだ。その内容を聞き取ろうと、尚も同じ姿勢でじっとしていると、直後に少し高い結城の鋭く鳴くような嬌声が泉の耳へ届いた。 　この声を聞くのは初めてではない。夜、寝台の中で、自分の腕の中で、結城が漏らした声だ。その甘い響きが今、泉の心臓に錐の鋭さをもって突き入ってきた。室内の状況を想像する暇もなく、悲鳴のような喘ぎと共にスプリングが深く軋む音がした。次第に規則的になっていくその音は、圧倒的な力で泉の胸を踏み潰していった。 　混乱と急激な息苦しさを覚えながらも、まだ聞き間違いだと信じたかった。その気持ちがかえって不必要に長く泉を地獄の底に足止めさせた。 　やがて動揺のため吐き気を覚えた泉は車に戻り、ペットボトルのミネラルウォーターを飲み干した。すぐには動けなかった。何とか正気を保ちたいと願いながら眼元を覆い、ぐったりとして席のシートを倒して寝転んだ。気持ちを整えつつ休んでいると、次第に自分の愚かさが笑えてきた。 　一体、このざまは何だ。まさか、あの男と本気で恋愛をしているつもりだったのか。恋人がいるかどうかを確かめもしなかったのに、裏切られたと云うつもりなのか。いつも恋の上澄みだけうまく掬い取って、飽きたり面倒臭くなれば体よく別れてきたこの自分が？ 　しかし何故だ何故だ。どうしてあんなことを云った。救われた、なんて。 　先刻のあの黒い服の男。あんな風に笑いかける相手がいるのに、一体、自分のような男に救いを求めなければいけない何が、お前にあるんだ。あれは心を捕らえるための嘘か。自分は年下の男が放ったリップサービスを真に受けて、まんまと心を奪われてしまったというわけか。 　清廉な愛情を錯覚させられたと思うと、自己嫌悪よりも強烈な怒りが、全身を貫いていった。一瞬、泉の中には結城に対する憎しみさえ芽生えた。あの言葉、そして誠実さを装ったあの眼は許せないと、どろりとした黒い感情が澱のように溜まっていった。 　神経が麻痺していたのか、それから三十分近く泉はそこにいた。夕方のオレンジ色が夜の紺藍に押されて彼方へ消えつつある。訝しげな表情をしたアパートの住人とも眼が合ったりしていた。恋愛で不自由したことのない泉にとってこんな行動は初めてだった。 　時計はもうすぐ五時を指そうとしていた。その時、結城の部屋の扉が開き、黒い服を着た男が一人で出て来た。彼は振り返らずに、髪型を気にしながら足早に敷地を出て行く。その顔を遠くから睨みつけた後で、泉は車を出た。