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第21話

 インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。 「えっ……泉さん?」 「こんにちは」  寝ていたところを起こされたというような様子の結城が出てきた。眼鏡はかけておらず、深いグレーのカーディガンを羽織っている。部屋着のためか大きめの緩いシルエットで、葵が好んで着そうな服装だった。 「どうされたんですか?」 「結城くんに会いに来たんだよ。ちょっといいかな?」 「……あ、すみません。ちょっと今、部屋が散らかっていて……あの、良ければ近くの喫茶店とかに」 「気にしなくていいよ。先刻まで人が来てたじゃない」  一瞬、ぎょっとした様子で結城は泉の顔を見上げた。泉は手で扉を押さえ、更に一歩前へ進んだ。  口にしなくても、先程の男は部屋に入れておいて、自分のことは入れない気なのか、というのが雰囲気で伝わったらしい。結城は躊躇いがちに一度視線を部屋へ向けると、 「ほんとに……きれいじゃないですけど」  と云って泉を中へ通した。玄関の備え付けの靴箱の上に、変わった形状の硝子瓶が置いてあった。中心が丸く空いた円柱を三つに切って、真ん中だけを左へずらした形をしている。瓶の下に白いアルファベットで何か書いてあったが、この時嫉妬で頭が一杯だった泉には、このだるま落としを彷彿とさせる硝子瓶が何なのか、ぱっと見ただけでは分からなかったし、どうでも良かった。 「珈琲か何か、淹れますね」  ほとんど押し入ったと同様の泉に対し、結城は努めて明るい笑みを向けようとした。  部屋に入ると部屋の匂いに混じって煙草の残り香が漂っていた。玄関に入ってすぐ左手にキッチンがあり、ダイニングテーブルが中央に置かれていた。その上にスターバックスのカップと、吸い殻が一つ乗った灰皿があったが、結城はすぐにそれらをシンクの脇へ下げ、泉に二脚ある椅子の一つを勧めた。  部屋は寒かった。エアコンは稼働しているが、効きが悪いのかも知れない。  ダイニングの向こうには硝子の引き戸があり、五センチほど隙間が開いていた。椅子に座る寸前にちらりと眼をやると、そこは和室で、結城が寝起きしているであろう寝台が乱れた状態でそのままになっていた。泉はそれ以上寝床に注目する気になれず、室内の他のところへ眼をやった。箪笥も文机も見当たらなかった。この部屋で、冷蔵庫などの電化製品以外に大型の家具はテーブルだけだった。二つあるものと云えばこのテーブルに添えられた椅子ぐらいのものだ。何となく、この部屋に恋人と二人暮らしという甘い雰囲気はなかった。 「ここには何年住んでるの?」 「五年くらいです」 「そう。結構長いんだね。ここは駅から遠いと思うけど」 「引っ越すのも億劫で……」  結城は狭いキッチンでドリップ珈琲をマグカップに準備していた。湯を注ぐ音がする。テーブルのすぐ脇にごみ箱があることに気づいた泉は、浅はかだと分かっていながら、思わずその中に眼を凝らしてしまった。先程の男と情を交わした痕跡が残っているのではないかと思ったからだった。 「先刻の黒い服の人、あれ、誰?今日はあの人と出かけてたの?」  そのあからさまな詮索に、結城はちょっと途惑った表情を見せたが、すぐに湯を注ぐ手許に視線を戻した。よく見ると、結城の髪の後ろ側が少し乱れていた。 「はい。ちょっとした知り合いで……その、友人の友人というか」 「そう。で、何処に行ってたの?」 「あの人と共通の知人が今、入院していて……それで一緒にお見舞いに行って来たんです。病院は葉山の方に」  結城はそこでマグカップを泉の前に持って来た。 「葉山か。あっちは空気も景色もいいものね」 「そう、ですね。静養するにはいい環境だと思います」 「それで、その帰りにスタバでお茶して帰って来たってわけか」 「ええと、相手が会社のインセンティブでカードをもらったから、奢るって、云ってくれて……駅前の店でテイクアウトして」  泉はあくまで笑顔を貫いているつもりだったが、眼を合わせている間中、結城の口ぶりはまるでその笑顔に言葉を遮られているかのようだった。ただ、説明はたどたどしいものの、結城が嘘を云っているようには聞こえなかった。結城が話し終えた直後に、沈黙がやってきた。泉は平気だったが、結城は落ち着かなげに、 「そうだ、もらった焼き菓子があるんです、良かったら」  と云って立ち上がった。 「ううん、いいよ」 「たくさんあるので」  泉は席を立った。その音で振り返った結城と向かい合わせになった。泉は今の自分が結城にどう見えているのか知りたかった。自分が放つ鋭い感情に気づいているはずなのに、どうしてこの男は何も訊かず、反発心の欠片も見せないのか。  泉が手を伸ばして頬に触れても、結城は身動きせずにじっとしていた。そのまま肩に触れ、もう一方の手でカーディガンの合わせ目から手を忍ばせて腰に触れた。  約束もなしに突然来た上、十分と経たずにこんな行動に出るなど、どうかしている。だが結城は少し狼狽えながらも、何も云わずに息を詰めていた。一つしか留めていないカーディガンの釦を外して脱がせ、中に着ていたコットンの服の上から胸の突起を探し当て摘まんだり、擦ったりしてみる。それから彼がいつもつけている、寂しく甘い例の香水の匂いを期待して、こめかみや耳のあたりに唇を寄せた。すると、全く別の香りがした。誰か、知らない人間の体から移った香りだった。  ああ、やっぱり裏切られたのだと確信した。そんな風に思うのは筋違いだと分かっていても、胸の痛みが抑えきれない。深月もこんな気持ちだったのかと思う。 「先刻の人と、した?」 「……どうして」 「だって、なかなか部屋から出て来なかったからさ」 「ただ、珈琲を飲んで話してただけです」 「ほんとに?良かった」  泉は本当に心から安堵したという声色で云った。結城が罪悪感を抱くように。

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