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第22話
「ねえ、この前云ったよね。僕、結城くんのことすごく好きだって。だから分かるでしょ?先刻の奴と帰って来るのを見た時、死ぬほど嫉妬しちゃったんだよ。二人っきりで部屋に籠って何してるのかなってすごく気になったしさ。ほんとに、どうしようかと思ったよ」
首と肩のあわいを咬むと、結城が小さく呻くのが聞こえた。この時点で、泉がいつもと違うことを結城も察したのか、やや怯んだ表情になった。
泉の情欲が波になっていっぺんに襲ってきた。相手の体を撫で回しながら、腹の底で暴れかかっている情念を押し隠すのは容易なことではなかった。
泉はやや強引に結城の体を後ろ向きにし、珈琲を置いたダイニングテーブルの端に手をつかせてからスラックスを剥いだ。挿入行為に及ぶ寸前、寝台で、と結城が云いかけたが、泉は何も聞こえないふりをした。結城の後孔に唾液を塗り込みはしたが、それで充分だったかどうかは分からない。泉はほとんど力尽くで無遠慮に彼のそこを突き埋めた。
「あっ、い……」
いつもと違う角度と抉るような痛みのためか、結城はいつもよりはっきりした声をあげた。
泉は結城に痛みを与えたいと思っていた。はっきりとこの男を傷つけたいと思っていた。別の男を部屋へ連れ込んだ裏切りに激しい怒りと嫉妬を感じていた。
先程の男と何もなかったなどというのは嘘だ。きれいに拭き取られてはいたが、露わにした結城の下半身からは、よその雄の性臭がした。上半身にはあの男の香水がしみついている。あの乱れた寝台もそんな裏切りの匂いに満ちているに違いないのだ。きっと汚濁の飛沫の痕跡を見つけてしまうに決まっている。
頭を掴んで髪を乱暴に後ろへ引っ張ると、結城が普段より高い声色で鳴いた。
いつだったか海晴に、愛してるよ、という言葉を投げかけて、
『あいしてる、って何?』
と訊き返されたことがある。試しに額にキスをして、こういうことかな、と云ったが幼子は腑に落ちないようだった。仕方ないので言葉を探して悩み抜いた末に、
『すごく好きってことだよ』
と答えた。
自分は本気で結城を愛し始めていたのだと、ここにきて泉は思い知った。
結城は泉を拒否したことがない。どんな提案でも受け入れて泉の望む形をとる。素直で従順で、いとも簡単に手に入りそうに見えたのに、これまで出会った誰よりも不可解で掴みどころのない男だった。
揺蕩 い流れる水と同じ、この男の静謐な気配は、恵みのように泉の中へ流れ込んできた。潤されて、満たされて、いつしか息苦しさを覚え、気づくと自分の方が溺れている。この男の瞳だけは恐ろしいほど透徹した光を放っているが、心は見えない。確かにこの腕に抱いているはずなのに、この男の体は知らない間に、何処かへ流れ出ていってしまいそうだ。愛しているのに、相手のことが何も分からないのはつらい。口では好きだと云いながらも、自分に対する熱が見えないこの男の心が憎い。
泉は結城の髪だけでなく肩や背中を引っ掻き回し、押さえつけ、咬みつき、何度も最奥を蹂躙して精を放った。結城の体を雑に突き放したところ、彼はやはり痛みを感じているのか、呼吸を乱したまま結城はしばらく起き上がらなかった。体が震えている。その姿を眼にして、やっと泉の気が済んだ。
だが気分が晴れたのはほんの一瞬だった。ひどいことをしてしまったという、奈落に突き落とされるような感覚で目が覚めた。
結城に何を云い残してその場を離れたのか、泉は憶えていない。眼の前が真っ暗になり、眩暈がして、そこから逃れようと泉は転がるようにして結城のアパートを出た。車の中でサイドミラーに映る自分と眼が合っても、まるで他人を見ている気分だった。ここに映っているのは人間なのか。理性とか品格といったものが全て剥がれ落ちて、自分が一匹のけだものになってしまったような気がした。
白石の云う通り、泉は自分のことを基本的には淡白な人間だと思っている。
他人に優しくすることも、優しいふりをすることも、昔から得意だった。見返りなど求めたことはない。全て無意識からだった。
「なるべく人から嫌われるより好かれた方がいいからね」
と、他人を納得させるために尤 もらしく理由づけることはあるが、実際はそこまで考えて行動に出ていない。だから憶えてもいない優しさを理由に好かれて困ったこともあるし、反対に自分を嫌う人間がいてもそういうこともある、と思うだけだ。
もちろん、熱烈に人を好きになったことがないわけではない。
保育園の時に仲が良かったクラスメイトの大 ちゃんという男の子のことは今でも忘れていないし、小学校四年生の時に産休に入る担任の代わりにやって来た小堀 という若い女性教師にはとても懐いた。彼等と別れる時は非常につらく、しばらくの間、夜に枕を濡らしていたことを憶えている。
ただその反面、小学校六年生の時、卒業まであと一年というところで同じ仲良しグループの友人が転校して行った時も、高校一年の時、美人だと有名な女の先輩に云い寄られた時も、全くと云っていいほど心は揺さぶられなかった。先の二人と違って名前が出てこないのがその証拠だ。そして付き合ってだめになった交際相手のほとんどは、名前が出てこない。
自分は一部の人間をものすごく深く愛する代わりに、それ以外の人間はあまり眼中にないのだということが、十九、二十歳になると分かってきた。そういう眼中にない人間からの好意に、泉は非常に鈍感だった。苗字か顔のどちらかしか憶えていない相手から交際を申し込まれ、そこで初めて相手の気持ちに気づくなどということはしょっちゅうで、期待させないでよ、などと喚かれるのもよくあることだった。
愛した人間に裏切られた経験は一度だけだ。とんでもなく強い怒りの衝動が湧いてきて、泉は我を忘れてしまう。
小学校六年生の修学旅行の時、泉はクラスメイトをこれ以上ないほどに叩きのめして問題になったことがあった。旅行中の班行動で一人、置き去りにされたことがその理由だった。
そのクラスメイトは、当時最も仲の良かった友人だった。
友人は同じ班になった女子の一人に恋をしていて、旅行先で彼女に告白することを決めていた。本音を云うと泉は、大好きな友達が別の誰かに恋をしているなんて面白くなかったが、表面上は彼を応援していた。
友人の告白は失敗に終わった。彼女には好きなクラスメイトが他におり、その相手は泉だということが発覚した。
その話を友人から聞かされた時、泉は何と云っていいか分からず、
「僕はその子のこと別に好きじゃないし、安心して。友達の君のことの方がずっと大事だよ。何でもするから、元気出してよ」
というようなことを云った。
「ありがとう。いい奴」
ところが翌日の班行動の際、友人は腹いせに出かけた先で、泉に嘘の集合時間を教え、土地勘のない場所に泉を置き去りにした。各所への連絡先が書かれた旅のしおりも盗まれていた。当時は携帯電話など持っていない。陽も暮れ始め、焦りと心細さも手伝って、どのようにして今いるところまで来たのかが分からなくなった。どうにかして旅館に戻るため、公衆電話を使って自宅の母に相談し、あとは母から学校、学校から修学旅行に同行している教師陣へ連絡をとってもらった。そして迎えを寄越してもらい、何とか旅館まで帰って来ることができた。
友人と就寝部屋で顔を合わせた泉は、突然無言で殴る蹴るの暴行を加えた。
置き去りにされたことが不安だったからというより、この友人のことが好きで信用していたからこそ、女のことなんかで逆恨みをしてくることが許せなかった。自分の友情がどうして分からない、と思った。成長した時に、あれは友情ではなく愛情だったのだと思い至った。
愛している人間に不安にさせられると許すことができない。遊びのつもりで捕まえた年下の男に激しい恋をしていることを、こんな形で思い知って、泉は自分の愚かさと鈍感さに腹が立っていた。
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