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第25話

 食事が終わりに差し掛かった頃、今日、歯科助手のアルバイトはないのかと葵に訊ねたところ、日中にシフトが入っていたけれど、もう行かなくていいことになった、という答えが返ってきた。 「どうして?シフトの変更でもあった?」 「違う。……昨日の夜、連絡があって、もう来なくていいって」  急に葵の声が小さく、歯切れの悪いものになった。 「あの、一昨日なんだけど、患者の一人から治療の後、歯茎が痛むっていう連絡があって……どうも、治療中に俺が用意した薬品が間違ってたらしいんだよ」 「えっ」 「正しい薬品も、俺が間違って用意したのも、どっちも透明で……シリンジに入れちゃうから、先生も気づかなくて。患者の方はその後すぐ治療し直して大丈夫だったってことなんだけど、間違えられたら困るんだ、ってすごい怒られて」 「ああ……それは大変だったね」  泉にはそれしか云えなかった。だが正直なところ、いずれこういったことは起きるのではないかと思っていた。医療関係の職場はちょっとしたミスが命取りになる。緊張感のない葵にそういった現場が務まるとは思えなかったのだ。 「憂さ晴らしに出かけようと思ったら、家の前に先刻話した二人がいるしさ。ほんとに萎えることばっかで。……母親はバイトあると思ってるから、今の時間には帰れないし。クビになったとか云えないじゃん。だから、その……今日ここにいていい?」 「君は僕に予定があるだろうなとか、そういうことは考えないの?」 「もちろん、今日泉さんの彼氏が来なければ、だけど。母親は仕事で六時半に家を出るから、それぐらいまで。だめかな?」  泉は心の中で嘆息した。昨日も丸一日デートしたというのに。悪い子ではないが、はっきり云って、葵は連日共に過ごしたいと思うような相手ではなかった。結城といる時のような静けさや穏やかさはこの若者といては得られない。だが、天丼のたれを唇につけたまま、やや気まずそうに自分を見上げる葵を見ていると、この冷たい雨の降り頻る中、さっさと帰るようにとは云えなかった。 「分かった、いいよ。帰りは車で送ってあげる」 「やった」  泉の出した許可に葵は心から安堵したようだった。それからきれいにどんぶりの中身を食べ終えると、緑茶に手を伸ばした。 「ねえ、先刻云ってたこと、ほんと?」 「え?」 「俺が莫迦じゃないって。ほんとにそう思う?」 「もちろん」 「何で?もっと頭の悪い奴は世の中にたくさんいるから、って?」  葵は口許に笑みを浮かべていた。その表情には、諦めと悲しみがこもっていた。彼が今自分で云ったような雑な慰めに、彼は度々、自尊心を傷つけられてきたに違いない。彼の眼がそのことを物語っていた。 「そんなんじゃないよ」 「でもどうして?大学だって大したところに行ってないし、バイトだっていつもこうやってクビになる。みんなが分かってることを一人だけ分かってなかったり、同じ間違いを繰り返したり。何でなのか分からない。昔からこうだった。俺、普通に見えるかも知れないけど、本当は違う。めちゃくちゃ頭悪いんだよ。もちろん、わざとやってるわけじゃない。こういうのが救いようのない、ほんとの莫迦なんだと思う。こんなんじゃ、周りに迷惑かけるばっかりで、将来できる仕事なんて何一つ見つからなくて、野垂れ死にするかも知れない」 「やめなさい。人は多かれ少なかれ周りに迷惑をかけて生きていくものなんだから」  葵が東大に入れるような頭脳の持ち主かと問われれば、泉は否と答えるほかない。葵は何かにつけ間が悪く、時々ものすごく基本的なことが抜けていたりする。行動しようと思うとそれだけでいっぱいいっぱいになって、周りが見えていない。やらなければ、という気持ちに囚われ、前提を忘れ、付随する問題やその先に思考が及ばない。もちろん、泉は医者でも何でもないのであれこれ分析する気は毛頭ないのだが、会社の人事部に所属している経験則から、社会人になったら苦労するだろうな、とは思っていた。  社会人になると、自らの『困った個性』の深刻さに気づき、切実な様子で相談して来る社員は少なくない。とはいえ、安易に周囲に配慮を求めることもできない。直属の上司や同僚にとっても、常に業務を滞らせる人間がいるというのは悩みの種なのだ。その対処のためだけに余分に時間や人員は割けないし、組織のシステムは変えられない。解決できないことを悟り、誰にも相談せずに精神的に追い詰められて会社を去って行った社員もいる。 「葵くんにだって、何か好きなことがあるんじゃないの?人から感謝された経験は?まだ若いんだから、そういうことを伸ばしていったらいいんじゃないかな」 「保健室の先生みたいなこと云って。それがないから悩んでんじゃん」 「だったらこれから探そうよ。自分が莫迦だとかって云い訳して諦めちゃうなんてさ、そんなのずっと不戦敗みたいなもんじゃない」 「そんな綺麗事どうでもいいよ。それより泉さん、大人なんだから、俺みたいな奴でも要領良く生きれるコツの一つでも教えてよ。俺、今まで生きてきて何かがうまくいったことなんかないんだよ」  泉はすぐには答えられなかった。ああ、また自分は同じことを繰り返している。この感情には覚えがある。会社でも相談を受けた社員が辞めていく度に、もっと何かしてやれたのではと以前は思っていた。 「ほっといたって退職する奴はするんだから、思い悩むだけ無駄だよ」などと同僚にも云われたが、仮にも自分を頼ってくれた人間について、泉はそこまでドライに思いきることはできなかった。  今はもう連絡をとっていない親友に対してもそうだ。何かしてやりたい、慰めてやりたい、その一心だった。けれど、彼と最後に電話をした時に痛感した。自分はできる限りのことをしたつもりでも、たとえその相手が心底大事に思っている人間でも、結局のところ、他人の何かを変えることなどできないのだ。自分は親友を錯乱から救うことなどできなかった。とてつもない無力感だった。全てはエゴでしかないと気づいたじゃないか。ここで今、葵に言葉を尽くしても、この子の十八年間の蓄積した劣等感にどうせ敵いはしない。 「……ごめん。八つ当たりした」  意外にも葵はすぐに謝ってきた。 「俺のこと、嫌いにならないでね」 「別にそれほど気にしてないから」  嘘だった。気にしていた。 「……でもさ、あんまり自分のことを卑下するのはやめた方がいいと思う。あと、たまに今みたいに投げやりになるのも。君のお母さんが一生懸命働いて入れてくれた大学を悪く云うのも良くないよ」 「分かってるよ。でも母さんは忙しいのもあるけど、気にするところが何かずれてんなって思うことが多いんだよ。とにかく大学、なんて無理してまでさ」 「そう。葵くんは今の大学を卒業したからって人生が良くなるわけじゃないって思ってるんだね」 「うん」 「でもね、無駄にするかどうかは結局自分自身にかかってるんだよ。それに、大学を卒業していることで就職の範囲も広がるよ。正社員の求人広告を一度見てごらん。採用条件に『大卒以上』っていう条件を設けてる会社は珍しくない」 「……そうなの?」 「うん。君のお母さんが大学にこだわるのは、君が何かにチャレンジしたいと思った時のために、なるべく選択肢を増やしておいてあげたいって思ってるからなんじゃないかな。自分が行けなかったところに、君が行けるよう頑張ってる。僕に云わせれば、いいお母さんだよ。今度、もちろん学歴が全てじゃないけど、資格を取る時でも大卒の方が有利なものもわりとあるんだよ」 「ふうん」 「とにかく、それだけお母さんが頑張ってくれてるなら、単位を落として留年とか、やる気がなくて中退、とかはだめだよ。今は意味が分からなくても、面倒臭くても、とにかく一つずつ目の前のものを片付けていくしかないんだから」  葵は溜息を吐いた。 「うん、そうなんだろうね」 「でもさ、今回みたいにバイトをクビになっても、葵くんはOさんみたいな大人に媚びたり、体を売ったりしようとかは思わないんだね?Oさんに頼んだら、きっとお金はたくさんもらえるし、その方が楽かも知れないのに」 「当たり前じゃん。なに、楽って。そんなこと考えらんないよ」 「そうだよね。それなら葵くんは大丈夫だよ。僕はそういうことが平気でできるバイト先の先輩たちより、プライドを持ってる葵くんの方がこれから幸せになれると思う」  泉は本音のつもりだった。葵が聞き流さずにいてくれることを願っていた。 「失敗したり落ち込んだりすることも人生には必要だよ。でもそのうちきっと転機が来るから」 「てんき?」 「何かが良い方向に変わる瞬間のこと」 「何だ。それならもう来てるよ。俺は泉さんに会えたんだもん」

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