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第28話

「いい香りですね。ケーキも美味しそう」 「近所の店の人気商品なんだよ。一回、結城くんに食べて欲しくて」 「ありがとうございます」 「ううん、こんなのお詫びにもならないよ。あのさ……会ったらずっと謝ろうと思ってたんだ、この前のこと……」  泉は気持ちを奮い立たせるために、そこで一度言葉を切った。 「あの、ほんとにごめんね、急に家に押しかけて、あんな風にして……痛かったよね」  謝られるとは思っていなかった。結城の眼はそう云っていた。彼は泉の謝罪に軽く首を振り、微笑んだ。 「いいえ、気にしないで下さい」 「もうあんなこと二度としないよ。信じてくれる?」 「はい」 「それで……あんなことした後で云うのもどうかと思うけど……僕と、ちゃんと付き合ってみる気ない?」  その言葉に結城が体の動きを止めた。眼と眼が合い、視線が絡み合うと、泉は誰でもない自分自身に問いかけられている気がした。こんなことを云えるだけの何が、自分にはあるというのだろうか。 「だめかな」  紅茶の香りが二人を包み込んでいた。外は既に暗くなっている時刻だ。カーテンを閉めているので、空模様は分からないが、泉は何故か雨が降る予感がしていた。 「この前は、結城くんが別の人ともそういう関係をもってるんじゃないかって思って……部屋に遊びに来てた黒い服の人」  結城は是とも否とも云わず俯いていた。 「ちゃんと君に訊けば良かったんだ。あれが彼氏なのかって。それから、君のことが本気で好きになったんだって云うべきだった。それなのに、勝手に嫉妬していらついて、あんなひどいこと」  断られるだろうな、と思った。こうして告白してはみたものの、きっとだめだろうということは結城の眼を見ていれば感じ取れた。いや、自分はもっと随分前から分かっていたのかも知れない。この男の体を覆い包む影に気づいた時から決して本当の意味では彼の魂に近づけないことが分かっていた。  泉の言葉に結城は礼儀正しい笑みを浮かべ、 「ありがとうございます。そんな風に云ってくれて」  と眼を伏せた。でも、と続くのが泉には分かっていた。 「あの日のことは本当に気にしないで下さい。それに……私も泉さんのことは好きです。でも、付き合うことはできません」 「だよね。やっぱり……」 「あの、この前のこととは関係なくて、私は誰とも付き合うつもりがないんです。……先週、部屋に連れて来た人と寝たのは認めます。でも恋人なんかじゃない」  ショックだった。結城の口からはっきり他の誰かと寝たと云われることは、予想以上のダメージが泉にはあった。 「それに、泉さんと私は違いすぎるから」  まだ穏和な明るさが残った声で結城は云った。 「……違いすぎるっていうのは、年齢とか、僕に結婚経験があるってこととか?」 「理由はいくつかありますが、私が一番気にしているのは、海晴くんのことです。たとえ今、泉さんが正式に離婚していたとしても、小さなお子さんがいるあなたと付き合えません」  結城の声は柔らかかったが、毅然とした誠意が感じ取れた。 「泉さんが何よりも考えなければいけないのは、まだ六歳の海晴くんのことです。仮に今後、樹里さんと離婚して、夫という役目を降りたとしても、親だけはやめることはできないから」 「もちろんだよ。でも、人の親だからって寂しさが消えるわけじゃない。海晴に会えるのは月に一度だけ。あとはあの子のいない家で寂しさとどう戦うかばかり考えてる。自業自得だろって思うかも知れないけど」 「私は泉さんがしたことに対して、どうこう云える立場じゃありません。寂しさを感じるのも、人として当たり前の感情だと思ってます。それに、今云った通り、私は泉さんが好きです。だから、泉さんが寂しい時は、いつでも私のことを呼び出してもらって、何でも云ってくれて構いません。理由なんか要らない。セックスだけでもいいんです。私ができることなら何でもしたい。でも、付き合うという形をとるのはだめです」  結城の眼が翳りを帯び、一度言葉が途切れた。 「……以前、付き合った相手に対して、『恋人だから』という理由で、相手の全てを欲しがった経験が私にはあります。それを今でも後悔してる。相手の大事なものを、大事だと思えなかった。もう二度と、そういう自分になりたくないんです。……その結婚指輪を外さない本当の理由は、いつでも海晴くんの存在を思い出すためなんでしょう?その決意を忘れないで下さい」  泉は自分の指輪を見た。分かっている。海晴を取り返したいと願いながら、結城も欲しがるなんて、そんなことが通用するわけがない。そうと分かっているのに、どうして自分はこんな行動に打って出てしまったのだろう。告白しても、結城に断られると分かっていたからか。単に自分の気持ちに整理をつけようとしただけか、それとも海晴が戻って来ないと心の底では思っているからか。 「……誰とも付き合わないって……結城くんはこの先、ずっと一人でいるつもりなの?」 「はい」  実にはっきりと結城は答えた。 「私はちょっとでも自分を見てくれる人が現れたら、その人の何もかもを欲しがって、強欲で嫉妬深い人間になります。相手を困らせて、二人の関係をだめにして、自滅していく。もしも泉さんと付き合ったりしたら、きっと親子の愛情すら許せなくて水を差すに決まっています」  その自虐めいた言葉には何か理由があるようだった。更に云えば、何となく結城は自分の内側について話す準備をしてやって来ているように泉には見えた。 「息子さんのことを嬉しそうに、悲しそうに話す泉さんを見て、いつも海晴くんのことを羨ましいと思っていました。私は自分の両親とはもうずっと連絡をとっていません。母親は過干渉で、父親は無関心でした。二人とも、息子の中身について全く興味がなかったという点は一緒です。うちの親は、私がつくったものなんか飾ってくれたことは一度だってありません。特に母親がひどくて、実家にいた頃は常に行動を管理されてましたから、碌に友達もできませんでした。自分のことを無条件に愛してくれて、いなくなったら悲しんでくれる人。そういう人間が俺にはずっといなかった。だから……分かるでしょう。あなたが本気で愛してくれると思ったら、俺はきっと過去に充たされなかった心の穴埋めをあなたにさせようとする。あなたが海晴くんに向ける愛情にまで嫉妬したくないんです」  落ち着いた口調で、言葉遣いも丁寧なままだったが、初めてセックスをした日と同じように、また結城は途中から自分のことを『俺』と云っていた。それだけでこの男の内面の揺らぎが見てとれた。 「君はそんな人間じゃないよ」 「いいえ、泉さんには分かりません。世界のどことも繋がっていない人間の感覚が、そういう人間が何を思うかが、きっとあなたには分からない」  胸を衝かれ、泉は口を噤んだ。結城は俯き加減に眼を逸らしたまま、何も答えずにケーキの食器を片付けるために立ち上がった。 「それなら話して」  泉は結城を見上げて云った。 「僕はね、君のことを知りたいんだよ。ずっとそう思ってた。初めて見た時から、君のことを知りたいと思ってた」  泉の言葉にひとかけらの希望のようなものが結城の眼に仄見えた。 「何を聞いても驚かないし、逃げないから話してよ」  愛とは理不尽なものだ。初めは素知らぬふりをして通り過ぎるくせに、気づくといつも眼が合う距離にいて、徐々に近づき、いつしか心にしがみついて離れなくなっている。  結城は眼を伏せ、もう一度腰を下ろした。 「分かりました。……でもその前に、私も泉さんについて知りたいことが一つあります」

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