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第29話

「うん、何?」 「奥様の……樹里さんのことも、海晴くんのことも愛していたのに、親友とはいえ、どうして他の方と」  ああ、と泉は反応した。そのことか、と思った。 「あの時はそうするしかないと思ったからね」  数か月間、絶望の中で何度も自問自答して云えることといえばこんなものだ。あの時したことを後悔していないと云えば嘘になる。けれど、あれが間違いだと云うのなら、あの時とるべきだった正しい行動とは一体何なのか、泉は未だに分からない。 「あの、泉さんを責めてるわけじゃくて、ただ、知りたいんです」 「うん、分かってるよ」 「その方とは、いつからそういう関係に」 「ううん、親友と寝たのは一度だけ。彼の奥さんが亡くなってね、頼まれたんだよ、彼の方から」  どうやら予想外の理由だったらしい。結城は一瞬眼を瞠り、その後で躊躇した表情を浮かべた。 「それは……すみません」 「謝ることじゃないよ。親友の名前は(たちばな)。亡くなった彼の奥さんの名前は菜々(なな)ちゃん。橘と僕は高校で知り合って、大学まで一緒に進んでね。菜々ちゃんは所属してたサークルの一年後輩。ちなみに樹里は菜々ちゃんの学科の友達だったんだよ」  それだけ云うと、泉は思い出を整理するためにしばらく沈黙した。結城は泉がじきに話し始めることを察して黙って待っていた。 「橘には高校入学初日に話しかけられたんだ。それ以来ずっと一緒だった。同じ部活に入って、同じ塾に通って、大学も同じところを受けて、同じサークルに入って。どれだけ一緒にいても飽きなかった友達はあいつだけだったな。喧嘩なんか一度もしたことなかったし、どんな時も不思議なくらい気が合って、こんな存在がいるんだなあって思ったよ。でも唯一違ったのは、僕はある時から彼を恋愛対象として見始めたけど、向こうはそうはならなかったってこと。大学三年生の夏休み、学生最後の思い出作りに二人でパリを旅行して……そこで告白して、ふられて、いい友達でいようって云われた。告白した後も橘は僕への態度を変えたりはしなかったから、それにすごく救われたな。その二か月後くらいに、あいつ、サークルの後輩と付き合い始めてさ、それが菜々ちゃん。社会人二年目の時に結婚したよ。よくサークルの部室に菜々ちゃんを迎えに来てたのが樹里。彼女は僕たちのサークルには入会しなかったけど、何度か顔を合わせるうちに話すようになって」  泉の青春は親友の笑顔と共にある。それから学生時代の仲間のことを思い出した。あの頃は経験的にも物質的にも得ることばかりで、喪失ということを知らなかった。泉の頭の中に楽しかった時期のことが次々と呼び起こされ、あの時のみんなはどうしているだろうと考えた。それから一口紅茶を飲んで続けた。 「僕も樹里も、菜々ちゃんが亡くなった時はショックだったよ。僕たちが知ってる限りでは本当に元気で、明るくていい子だった。結婚した翌年に悪性の腫瘍が見つかったって聞いた時は……嘘だろって、信じられなかったよ。しかもそれが見つかった時にはもう何か所かに転移してたって話で」  橘とはずっと良い友人関係で、大学を卒業し就職してからも、そして結婚してからも、よく会っていた。妻のことで追い詰められていく親友は、やがて見ていられないほどやつれていった。白石の店に最後に二人で行った時には、いくらか呑んで酒の回った橘がトイレへ向かった隙に、白石がさっと表情を険しく変えて泉に耳打ちした。 『ああいう顔をしてる奴にこれ以上酒を入れるのはまずいぞ。一緒に呑んで励ましてやれるような段階じゃない。酔っ払う前に連れて帰ってやれ』  親友の妻の葬儀から一か月ほどしたある日、泉の元へ電話があった。電話は橘からで、勤めていた会社を辞めてマンションを引き払い、実家に戻るという報告だった。 「それですぐに会う約束をしたんだよ。ほとんど無理矢理押しかけるような感じだったけど、会ってはくれた。でも……その日のあいつは、何日もまともに食べてないせいで葬儀の時よりも更に生気がなくなってた。部屋もひどい状態でさ。訊いたんだ。何か欲しいものとか、して欲しいこととかないかって。……まさかあんなことを頼まれるとは思ってなかったけど。僕に『自分のこと、まだ好きなら抱いてくれ』って。自暴自棄を通り越して、ほとんど正気じゃなかったんだと思う。でも、とても放っておけなかった。妻に先立たれて子供もいなくて、他に誰があいつを慰めてやれるんだろうって……それで僕にできることなら何でもしてやりたいって思ったんだよ」  あれは今思い出しても胸が苦しくなるようなセックスだ。本音を云えばあんなのはセックスと呼ばないと泉は思っている。親友は何故自分にこんなことをさせるのだと思いながらも、こんなことができるのは自分しかいない、他の誰にもさせたくない、この男を救えるのは自分しかいない、といういくつもの思いが泉の中で交叉した。必ずどこかで正気に戻ってくれると信じていた。枯れてしまった花をいくら腕に抱いて掌で温めても元通りに咲くわけではないのに、愚かにも泉は自分にならそれができると信じきっていた。 「でも……樹里さんはどうやってその日のことを知ったんでしょうか」 「それがね、僕はセックスの後、ビールをもらって飲んだら急に眠くなって。彼のところを訪ねたのは昼過ぎだったのに、眼が覚めたらもう夜の七時だった。橘はその間に、妻に電話をしてたらしいんだよ」 「電話?」 「うん」  あの日、家に帰ったのは夜の九時過ぎだった。樹里はテレビも点けず、暗い部屋で泉を待っていた。 『橘さんから電話があったよ』 『ああ、そう』 『七時頃、携帯にね。何も聞いてない?』 『うん、何かあったの?』 『あなた、橘さんと寝たでしょう。あの人が電話してきた時、あなたはあの人の隣で眠ってた。ビデオ通話だったのよ』  いきなり冷たい錐のようなもので胸を深々と刺し貫かれた気がした。 『これから樹里ちゃんのところに帰すからね、って。あなたが裸で寝てるところと、ご丁寧に、ごみ箱の使用済みのコンドームまで映してくれた』  樹里は感情豊かな女だった。泣いたり笑ったりと泉を振り回すのが常だったのに、この時は声にも表情にも何の感情も籠っていなかった。既に争いが終わった後で、分かり合えない相手と事務的な会話をしているかのような雰囲気だ。 『あなた、終わるとすぐ寝に入るもんね』 『ごめん。云い訳はしない』 『うん、あなたはいつもそうだよね。みっともない云い訳はしない。学生の時からそうだった。私たち別れたり復縁したりを繰り返して、いつも周りの友達を右往左往させてたよね。プライドがあったから毎回怒ったふりをしてたけど、本当は他の人を抱いたその手でも、私は平気だった。本音云うと、今でも大丈夫。セックスだってできるよ。でも海晴はだめ。その手であの子のことは触らないで欲しい』 『樹里』 『あの頃と違って今の私たちは家族なんだよ。みっともない云い訳をしてでも一緒にいたいって、どうして思わないの?』  それから二日も経たないうちに、妻は息子を連れて出て行ってしまった。  樹里の云うように、どうしてあの時の自分はなりふり構わず必死になれなかったのだろうと泉は思う。 「……その後、橘さんには」 「もちろん、電話したよ。何であんなことしたんだって訊いた。あいつから聞けたのは一言だけだった。親友だろ、って」  泉は黙って食器をまとめてキッチンへ下げ、追加の紅茶を持って来た。そして、結城のカップに注ごうと傾けた。 「すみません」 「いいよ、任せて」  泉はポットを戻すためにもう一度キッチンへ引き返した際、小窓の曇り硝子に雨粒が降りかかるのを見た。やはり雨が降ってきた。 「家族を裏切るつもりなんかなかったし、たった一度だったからなんて云い訳する気もない。けど……あの時、他にどうすれば良かったのかは今も分からないし、あれが間違いだったって云いきれない自分がいる。いや、多分間違いだったんだろうね。結局、あいつの心を助けることにはならなかったんだから。全部僕のエゴの所為で起きたことなんだと思う。ただ、あの時は放っておいたら親友が奥さんの後を追うんじゃないかって……樹里にしてみれば、橘の方から頼まれたなんていう証拠もないし、僕の方に本当に下心はなかったのか、ないなら何でできたんだって思うのも無理はないよね」  大学で知り合った時、樹里は植物学者である父を師事していた十以上も年上の男と別れたばかりで、そのせいか年下なのにどこか擦れた雰囲気を纏った女子学生だった。 泉が自分のセクシュアリティを打ち明けた時、樹里は、 『泉さん、橘さんのことが好きなんでしょう?私、そういうの分かるの。その上、どうしてかそういう人ばっかり好きになるのよ。これはもう宿命ね』  と云って自嘲気味に笑っていた。  樹里とはくっついたり離れたりを繰り返して三十で結婚したが、三年間子供ができなかった。その間、樹里は時々不安になるのか『男遊びがしたいんじゃないの?』と訊いてきたものだ。泉に全くそんなつもりはなかったのだが、妻の不安を泉は嬉しく思っていた。子供がいれば、自分たちの絆はより安定する、そして今より離れがたいものになると、そんな風に妻が考えているのが伝わってきた。外の世界では非常に理性的に振る舞っている彼女が、自分の前でだけ見せる繊細さや不安定さが泉は好きだった。そしてそれはこの女の抱かれたがっている意思表示でもあると捉えて、そういう時はあえて激しさを装って妻の体を愛撫した。セックスの後、毎回襲って来る白けた気分を我慢して、君がいればいいんだよ、と優しく囁けば彼女は安心して眠ったものだ。  そんな不安の末に生まれた大事な息子。そんな息子に対する裏切りだと妻は考えているのだから、許せない気持ちも分かる。 「樹里は、二人目の子供を欲しがってたんだ。でもなかなかできなかった。検査を受けたこともあるけど、はっきりした理由は分からなくて。けど海晴がいれば……僕は海晴だけでも充分幸せだったから、そんなに無理をする必要はないって思ってた。きょうだいができたら、それはそれできっと楽しいだろうけど、一人っ子でも絶対海晴に寂しい思いはさせない自信があったから。……だから樹里が不妊治療を提案してきた時、正直あんまりいい顔はできなかったんだ。僕だけが治療を受けるならいい。でも女性は、治療に毎回痛みを伴うから。そんな思いさせてまで……それに、海晴を授かったみたいに、二人目もいつか自然に授かるんじゃないかって思ってた。でも、出産のリミットを感じてる妻にしてみたら、僕がものすごく消極的に見えたんじゃないかな。あるいは、もう自分に対する愛が冷めてるんじゃないかって彼女は思ったのかも知れない」

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