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第30話

 泉は掃き出し窓を開けて、シャッターを下ろした。がらがら、という音と吹き込んできた風が、この部屋に満ちた空気を変えてくれる気がした。しっかりとカーテンまで閉めてから泉は結城の方を振り返った。 「ごめん、喋りすぎたね」 「いえ……今、橘さんはどうしてるんでしょうか」 「分からない。もう連絡は取り合ってないから」 「そうですか……泉さんは、橘さんを恨んでますか?」 「最初はね。でも結局、全部自分の所為だって、後から気づいたよ。樹里が本気で願っていることを、そこまで真剣に考えていなかったから不信感を買った。そんな中で男と寝たなんてことを知ったら、彼女が出て行きたくなる気持ちも分かる。それに、橘のことは……もっと早く専門家に任せるべきだったんだ」  結城はやや俯き、そっと云った。 「……ありがとうございます、話してくれて。私に何かできるわけじゃないですけど、私が泉さんを好きな気持ちは変わりませんから」 「そんな風に云ってくれるのに、僕と恋愛はしてくれないんだね。ひどいな」  甘い言葉に打ちのめされて泉は空笑いするしかなかった。好きだと云われてつらかったのは初めてだ。 「結城くんが思ってる以上に、僕は君のことが好きなんだけどな」 「私が別の人と一緒にいるのを見て、嫉妬したって、先刻云ってくれましたよね」 「うん」 「私もです。泉さんに他の人がいるって知ってすごく嫉妬しました。だから昨日、いきなり電話して、強引に約束を取りつけて、こんな風に押しつけがましく料理なんかして」 「他の人?」 「これは云わないつもりでいたんですが、葵奏人(そうと)さんから電話がありました」  泉は頬をはたかれたような衝撃を受けた。 「いつ?」 「日曜日の夜です。電話がかかってきて」 「嘘、だって君のことは一切あの子には話してない」 「泉さんの携帯を見たそうです。泉さんが寝ている隙に、メッセージをチェックして私に目星をつけたと云っていました」 「それで……何て」 「泉さんのこと、本気で好きなんですかって訊かれました。本気で付き合ってるのかって。声の感じとか話し方で、私より若いのかなと思いましたけど」 『あなたが本気で泉さんを好きだって云うなら、俺、今は我慢します。譲らないけど。俺にも泉さんが必要だから。でも俺っていう存在がいることは憶えておいて下さい。俺があなたの存在を知ってるように、あなたもちゃんと俺のことを憶えてて。泉さんが好きだから自分の立場は弁えるけど、あなたに対してこそこそしたくない。だって俺、不倫相手とかじゃないし。結城さん、泉さんの奥さんじゃないし』  それが葵の台詞だったという。 「葵さんと寝てるんですか?」 「……最後まではしてない、けど……」  十八の子に本気になんてなるわけがない。葵にしたって自分に執着するのは若気の至りに過ぎないはずだ。そんな云い訳が一瞬過ったが、我ながら最低な云い草だと思った。そして数回に及ぶ葵との行為を思い返し、いくら挿入行為がなかったと云っても、葵に云い聞かせた通り、あれはセックスしているのと同じことだという考えに至った。  泉がソファに力なく腰を下ろすと、結城が椅子を立って隣へやってきた。 「……確かに僕はその子とも付き合ってた。僕に君を責める権利なんかどこにもない」 「そうですか」  結城は口許では微笑んだが、どこかひんやりとした鋭さがあった。それ以上何も云わなかった。それが悲しみや怒り、そして不愉快さなどを示す、この男の最大限の感情表現なのかも知れなかった。 「……ごめんね、嫌な思いをさせて」 「謝らないで下さい。でも分かって欲しいのは、私も真剣に泉さんを好きだってことです。あなたに他の人がいると分かって平気でいられないのは私も一緒です」  それならどうして自分の告白を断るんだと云いかけた泉を遮って結城は続けた。 「それでも付き合えない理由がまだあるんです。泉さんにじゃなく、私の方に」 「なに?」  精一杯の冷静さを保って泉は訊ねた。 「付き合ってる人がいるんです」  それは泉の思いもよらない告白だった。  ここはどう返すのが正解なのか。素直に驚いた反応を示しておくべきか。それとも、何となく誰かの存在を隠していることに気づいていた、とでも云うべきなのか。 「そう……相手は男だよね?」  結城は分かるか分からないかぐらいに頷いた。ほぼ最小限の動きと云って良かった。二人のカップに紅茶はもう残っていなかったが、淹れ直しに行くような雰囲気ではなかった。 「その人とは長い付き合いなの?」 「はい。何年か一緒に暮らしてましたから」  結城は唇を噛みしめて、頭を下げた。 「本当にすみません、こういうことは初めに云っておくべきですよね。泉さんが家族のことを明かしてくれた時に、私も云うべきだった。あの時は……泉さんに二度目の誘いをもらえたことが嬉しくて、黙っていた方が自分にとって得だろうって考えてたんです」 「君の方こそ謝ることないよ。僕だって君に恋人がいるかどうか、わざと訊かなかった。正直に云うと、初めは恋人がいようがいまいが、君と寝てみたいなとしか考えてなかったし、途中からは、そんなのは聞きたくないって思うようになってたんだ」  泉のその言葉に結城は顔を上げた。二人はしばらく視線を合わせていた。不意に結城の表情に柔らかさが宿った。 「泉さんは、付き合ってる彼にちょっと似てます」 「そうなの?彼のこと、好き?」 「はい」 「でも……一緒に暮らしてた、ってことは今は違うの?」 「はい、彼は今、海外にいるので」  自分たちは己の寂しさを埋めるために相手を利用し合っていたのか。結城には恋人などいないと泉は勝手に決めつけていた。彼は指輪やネックレスなど、恋人の存在を匂わせるようなものを一切身に着けていなかったからだ。 「彼の話、聞かせてくれる?」 「はい。でも、今の彼氏と出会う前に、私には別の恋人がいました。私が初めて付き合ったのはその人です。彼がいなければ、今の彼にも会えなかった。だから、そこから話します」  雨音に包まれた静けさの中、泉は結城の話に耳を傾けた。

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