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第31話

 二十五歳の五月を迎えたある金曜日、ふいに結城は死にたくなった。  夕焼けの美しい夕方五時過ぎ、アルバイトを終えた結城はその日、勤め先の近所にある生花店で花を選んでいた。  死にたくなること自体はこれまでにもあった。半年ほど前に、一年半勤めた会社をほとんど馘のような形で退職した時にもそう思ったし、大学時代にひどい失恋をした時もそう思った。三か月前に父が家を出て行った時は別にどうとも思わなかったが、その後の母との二人きりでの生活には、日に日に嫌気が差してきていた。元より、抑圧的で過干渉な母と結城の関係が良好だった試しはなく、常に嫌悪と緊張を孕んでいた。  その日は母の日だった。花屋にいたのはそのためだ。母に花を贈りたいと思ったことなどこれまで一度もないのだが、これは毎年の慣例になっていた。  三千円程度のカーネーションで済ませたいところだが、そんなことをすれば日頃の感謝が足りないと喚き散らし、家を荒らすのが結城の母だ。母へ贈る花束は常に一万円前後でなければならない。  半年前、一年半勤めた職場で過労のために倒れ、そのひと月後に退職することになり、結城は実家に戻って来るしかなかった。大学の先輩の紹介で入ったその会社は非常に規模が小さく、複数の業務を一人が平行して務め、日々二、三時間の残業は当たり前といった、体力勝負の世界だった。結城は一日約十三時間働いていた。  元々体力に自信がある方ではなかった結城は、三か月を過ぎた頃から次第に勤務中にぼうっとすることが増え、胃腸の調子を悪くし始めた。暑くもないのに汗が滲み出たり、常に体がだるく感じるといった状態にもなり、だんだんおかしいと自覚するようになった。しかも体は疲れているはずなのに、夜になると頭が不安で一杯になり、眠ることができない。寝つくのは決まって朝方で、次に眼が覚めた時には起床時間を大幅に過ぎている。度重なる遅刻や欠勤、そして仕事のミスで人間関係も悪くなっていった。一年半で自己都合退職を余儀なくされた時も周囲の反応は実に冷ややかなものだった。在職中から心療内科や睡眠外来に通っていたために貯金は目減りしており、実家に戻る以外の選択肢が結城にはなかったのだ。そして半年経った今でも相変わらず不眠が続き、悪夢に(うな)される日々が続いている。  体調が良くならないのは、ぎすぎすした家の中にいるせいだ。終わりの見えない母親との生活に息が詰まりそうだった。  そんなことを考えながら感謝の花など選ぶ気になれるはずもなく、結城は話しかけてきた店員に予算を伝え、適当に花束をつくってもらうことにした。配送料節約のため、日曜日に直接受け取りに来る旨を伝票に記入し、店を出た。  当時の結城の職場は実家の最寄り駅前にある温浴施設だった。アルバイトとして入退館の受付や、販売しているアメニティや飲み物などの補充や管理を行っている。花を注文した翌日、いつものように受付に立っていると、入館して来た男性客が声をかけてきた。 「こんにちは」  妙にくだけた調子で挨拶され、結城は面喰った。  この客のことは知っている。週に二回ほどやって来る若い会員客だ。派手な赤い髪をしているので何となく憶えてはいた。高齢の常連客は気さくに声をかけてくれることも多いが、この男が結城に声をかけてきたのはこれが初めてだった。 「……こんにちは」  咄嗟に結城は接客用の笑顔で応対したが、一瞬の途惑いを相手の男は見逃さなかった。男がつけるブルガリの香水がカウンター越しに結城の鼻先に届いた。 「あれ?俺のこと憶えてる、よね?」 「はい……」 「あー、その反応は記憶にございませんっていう感じだなあ」  男は気を悪くした様子はなかったものの、その先の言葉を続けないまままだ結城を見つめている。どうやら自ら名乗るのではなく、結城に自分を思い出して欲しいと思っているらしい。次の客がやって来ているのに、この男が退かないので別のスタッフが隣のレジを開けた。  結城は気後れしながらも、面前の男性客の顔をまじまじと見つめた。こういう派手な雰囲気の男と正面から眼を合わせるのは緊張した。髪や服のインパクトが強いせいで、この客の顔をきちんと見たのはこの時が初めてだった。前職の同僚や取引先の人間ではない。学生時代の同級生だろうか?いや、それならばどうして今になって声をかけてきたのか。  そしてその三秒後、ようやく相手が誰なのか分かった。  この男は、昨日立ち寄った生花店の店員だ。ショーケースの前で声をかけてきたのが、確かこの男だった。あの時は黒いキャップを被っていて、赤い髪はほぼ見えなかった。少し吊り上がった眼元と、耳たぶの小さなフープピアスが記憶の端に残っていて、それらの要素が目の前の男と合致した。 「あ、昨日の」 「良かった。思い出してくれた?昨日はどうも」 「どうも……」  正直云って、だからどうしたと結城は思った。昨日花を買う際も、別段親しみを込めたやりとりをした覚えはない。ほぼ他人というべき間柄だ。こんな風にため口で話しかけられるのは妙な気がする。だが昨日とは逆で、今は自分の方が仕事中でこの男が客だった。愛想を振りまかれているのに素っ気ない対応をするわけにもいかない。  会員カードをレジの機器に通す際、結城はさりげなく裏面に記入されている男の氏名を確認した。  鳴海孝之(なるみたかゆき)。  顔を上げると、男の方でも結城の名札をじっと見つめていた。 「ユウキさん、て読むんだよね?」 「え……ああ、はい」 「昨日、伝票書いてもらったじゃん?その時かっこいい苗字だなって思ったんだよね」 「……ありがとうございます」 「じゃあね、お疲れ」  立ち去る間際、男は結城と眼を合わせて微笑んだ。結城が何か反応するより早く、彼は背を向けて歩き出してしまい、入れ替わりに別の客がカウンターの前へ進み出て来た。  その日はそれきりだった。男が退館処理をしに再び受付へやって来る前に、結城は退勤していたからだった。翌日曜日に結城が例の生花店に花束を受け取りに行った時も、あの男の姿はなかった。  結城が持ち帰った花束を母は一瞥し、毎年毎年ワンパターンね、とだけ云ってその場を立ち去った。

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