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第32話
水曜日、結城は受付カウンターで再び鳴海と顔を合わせた。
「花はちゃんと受け取った?」
開口一番にそう云われ、結城は、はい、とだけ返した。
次に鳴海がやって来たのは土曜日だった。次はまた水曜日。土曜日。そして水曜日、土曜日。この二日間があの生花店のアルバイトの日なのだということだった。
特別用事があるわけではないのに、鳴海は入退館の際、わざわざ結城の担当する受付レジに並んで、天気の話や自分の仕事の話をしてくる。別のレジのスタッフに呼びかけられても身振りで断っている。
最初は接客用の愛想笑いで調子を合わせていただけの結城も、徐々にこの男が気になり始めた。大して面白い会話もできない自分に、何故これほど話しかけてくるのか。
二人が言葉を交わすようになってひと月ほど経った頃、鳴海から唐突に、
「今日、一緒に呑みに行かない?」
と誘われた。だがこの時、結城は咄嗟に今日は用事があるからと断ってしまった。プライベートで会えば、自分のつまらなさが露呈してしまうと瞬時に考えたからだった。それに、もっと恐ろしいのは相手と仲良くなりたいという願望が湧き立つことだ。日が経つにつれ、結城は鳴海の明るさに徐々に魅力を感じるようになっていた。今は友達になれたら、その程度だ。それで済めばいいが、自分の場合は同性にそれ以上の欲求を抱く可能性がある。
物心ついた時から結城の恋には自制心がつきものだった。好きになるのはいつも同級生か上級生の男子生徒ばかりで、女の子は一度も好きになれなかった。思春期に入っても、女の子の胸や足を見ても、昂奮したことなど一度もなかった。
「きっと自分は周りよりずっと子供で、恋と友情をはき違える悪い癖があるのだ」
そう何度も思い直し、自分を抑えつけ、いつか自分も異性を好きになれる日が来るはずだと信じ込んだ。血迷って同性に告白などすれば、気持ち悪いと云われ、すぐに周囲に知れ渡り、自分は社会的に抹殺されてしまうだろう。そう思っていたから、いつもひっそりと片思いをした。
特に、眼を見て話してくれる相手に結城は弱かった。普段、結城は他人には深く入り込まず、入り込ませずといった雰囲気で一定の距離を保っている。それが、視線を合わせて微笑みかけられると、途端にその結界が剥がれ落ちそうになる。いつもそうやって恋に落ちていた。たちまち他のことが考えられなくなり、相手に好かれるためなら何でもしたいと願うようになる。
でもそれで報われたことは一度もない。相手から優しいあるいは親切だと褒められても、好きになってはもらえない。悪く転じればつけ込まれる。好きな相手の役に立ちたいという思いが裏目に出て、周囲にまで面倒ごとを押し付けても文句を云わない人間と思われたり、過度にいじられたりした。学生時代を終える頃には、自分が嫌いになり、諦めきっていた。
本当に自分を理解して、好きになってくれる人間などこの世にいない。無駄に誰かを想って心を震わせるのはもうやめよう。こんな性質を持って生まれてきた自分に毎日絶望していた。
そんな心の裡 など知らない鳴海は相変わらず、結城の担当するレジに辛抱強く並び、顔を見て笑いかけてくる。そして再び、呑みに行こうと明るく誘ってきた。
「ここの仕事、五時に終わるって云ってたじゃん?今日行こうよ。待ってるからさ」
「えっと……すみません、今日も用事があって」
「いつならいい?」
今度はすぐ引き下がってくれなかった。その時、受付カウンターは混み合っていたが、鳴海はそんな状況はどこ吹く風という風に結城の返事をじっと待っていた。一見笑っているようだったが、眼は笑っていなかった。射貫くようなその視線に途端に結城の心拍数は急激に上がり、たった今、自分が何をしていたのかも分からなくなった。どぎまぎして視線を逸らすと、後ろの客の一体何をしているのだという表情が視界に入ってきた。焦った結城は慌てて鳴海の退館処理を済ませた。
「あの、分かりました。今日行きましょう」
その日、仕事を終えて指定された居酒屋へ向かうと鳴海が待っていた。
疲れきって帰宅することになると思っていたが、意外にも鳴海とは時間を忘れて話し込んだ。
鳴海は明るい男だった。服でも音楽でも流行りのものは何でも知っていて、彼の口からは気の利いた冗談がいくらでも出てきた。彼は結城より二つ年下でこの春、大学を卒業したばかりだった。在学中に遊び惚けていたために去年は単位が足りず卒業できなかったのだという。今年の三月、ようやく単位ぎりぎりで卒業したが、就職活動に時間を割けなかったため、現在はアルバイトを掛け持ちして生計を立てているとのことだった。元々、あまり勉強好きではなく、単純に上京したいがために大学へ進学したらしい。昼間の仕事は週に二回の生花店だけで、他の曜日は深夜、どこかの呑み屋でホールスタッフのアルバイトをしていた。
「結城さんて優しそうだからさ、職場の同僚とかから人気あるんじゃないの?」
鳴海はグリーンのマルボロライトにジッポで火を点けた。その仕草に結城は内心見惚れていた。
「ありがとう。でもそんなことないよ」
「彼女とかは?いる?」
「うーん……まあ、女の子って怖いよね」
結城はわざと言葉を濁して笑った。二十五にもなれば、異性と交際経験のある普通の男を演じる台詞を少しは学んでいた。
「何、意味深。何かあったの?」
鳴海のその問いに結城は笑いながら、今彼女はいない、と答えた。
それを聞いた鳴海は、
「じゃあ俺と同じだ」
とやけに嬉しそうな笑顔を見せた。
「うちの受付スタッフで可愛いと思った子とかいる?」
「うーん、別に特にいないかな」
鳴海のその一言が結城は嬉しかった。少なくとも合コンの幹事としての役割を期待されているわけではないようだ。本当に自分のことが気に入って、この男は声をかけてきてくれていたのだ。
想像していたよりずっと遅い時刻になって二人は別れた。その晩、結城は久々に熟睡できた。
結城は自分と鳴海を、似ても似つかない者同士で、およそ縁のないタイプだと思っていた。けれど、もしかしたら鳴海とは波長が合うかも知れない。そう思ったのはこの時からだった。鳴海は結城といて退屈そうにしたり、結城を軽んじたりする様子は一切見せなかった。
結城には、連絡できる親しい友人というのが一切いない。学生時代、ほとんど毎日塾に通わされていたのもあるが、母親から執拗な詮索と干渉を受けていることを知られたくないと、常に表面的な付き合いにとどめていたからだ。
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