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第36話

 だが一緒に暮らしてみると不協和音は生活のあちこちから聞こえてきた。最初のうち、結城はそのことに気づかないふりをしていた。  結城にとって良かったのは、勤めている温浴施設は鳴海のアパートから徒歩十分のところにあったので、通勤がぐっと楽になったことだった。駅近で築浅、四十平米以上もある1LDKの部屋は、生活するのに非常に便利だった。もちろん、これだけの部屋を果たしてフリーターの男が一人で維持できるものなのかという疑問はあった。そして暮らしていくうちに判明したのは、鳴海の実家は裕福で、大学を卒業した現在でも定期的に仕送りをもらえているということだった。 「生活費は基本、自分で払ってるよ。家賃だって、バイト代が足らなくて親に頼んだことは何回かあったけど、いつもじゃない」  初めてこの話をした時、結城はそれ以上何も云わなかった。自分にとっては考えられないことだが、世の中にはそうやって助けてくれる親もいるのだろうと思っただけだ。  それよりも、もっとはっきりした不協和音が一緒に暮らし始めて半月ほどした頃に鳴り響いた。ある日の早朝、知らない女の子が二人、泥酔状態で鳴海の部屋を訪ねて来たことがあった。 「ちょっと聞いて。緊急事態ー。先刻まで近くで呑んでたんだけど、サヤカが歩けなくなっちゃってさあ。ナルちゃん家で昼まで寝かせてくれないかなあ?」  意識がはっきりしている方の女の子は玄関先に出た結城を怪訝な眼で一瞥すると、それ以降は勝手に部屋の奥に向かって呼びかけた。無遠慮に押し入られ、途惑う結城をよそに、遅れて玄関にやって来た鳴海は開口一番に、 「何やってんの?」  と彼女たちに訊ねていた。泥酔して朝五時前に他人の家を訪れるなど常識外れもいいところだ。鳴海も何かしら文句でも云うのかと思いきや、 「何でその呑み会に俺を誘わないの?」  とわざと怒った口調で云った後、にやっと笑ったので結城は驚いた。どう見ても彼は本気で怒ってはいなかった。 「えーだって、一応今日はバイト仲間との呑みだったからさあ。てか寒っ。この前の電気毛布借してー」  女たちは踵のすり減った靴を脱ぎ捨てるようにして、結城のことなど見向きもせずに部屋の奥へと向かった。彼女たちの後を追って行こうとする鳴海を捕まえ、結城は訊ねた。 「あの子たち誰?」 「うーん、友達の友達?この前、一回呑んだんだよ」 「どうしてこんな朝早く。連絡きてたの?」 「いや。でもいいじゃん、別に。もう来ちゃったもんはしょうがないし」  部屋の主が鳴海である以上、結城は文句を云える立場にない。  甲高い笑い声をあげ、化粧も落とさず、上下の下着が見えるのもお構いなしで、雑魚寝する女二人を、結城は別世界の生き物を観察するような心持で眺めていた。  結城の通常の起床時刻は六時半頃だが、その朝は気分が落ち着かず、かなり早めにアルバイトへ先と出かけた。  夕方帰宅した時には、とりあえず女たちの姿はなかったのでほっとした。それから夜勤に向かう鳴海のために、結城は冷蔵庫にあったもので簡単な食事を作ることにした。醤油で味をつけた卵焼きと梅干のおにぎり、それにインスタントの味噌汁に豆腐を追加したぐらいのものだが腹は膨れる。おにぎりに海苔を巻いて仕上げた後、卵を割っていると鳴海がいそいそと台所へやって来た。  結城はできるだけさりげなく、 「ねえ、今朝のあの子たち、ずっといたの?」  と訊ねた。気をつけたつもりだが、自分で思っていたより非難の色を帯びた声になってしまっていた。 「んー、夕方四時頃帰ったけど。あいつらも夜からバイトだからって」 「そう」 「怒ってんのか?」 「ああいう時間帯に訪ねて来るのはちょっと。それに、人が来るなら事前に知りたい」 「はいはい」  その返事にむっとして無言で料理を仕上げテーブルに運ぶと、結城は今日着た仕事着を脱衣所に持って行った。脱衣所のカゴに入っている洗濯物を一枚ずつ確認しながら、洗濯機に放り込んでいると、鳴海のデニムのポケットから折り畳まれた二枚の葉書が出てきた。一枚は水道代の催促状で、もう一枚は電気代の督促状だった。どちらも支払い期限を過ぎている。 「何これ、今すぐ払わなきゃ」 「ああそれ?大丈夫だよ、放っといて。後で払うから」 「大丈夫なの?延滞料金発生しちゃうよ」 「分かってるって。うるさく云うなよ」  仕方なく結城は云われた通り放っておいたのだが、何日かして『送電停止のお知らせ』という封書が届いてしまい、慌てて電気代だけは結城の給料から振り込みをした。  生活していくうちに分かったことだが、鳴海には浪費家の傾向があった。基本的に金銭感覚は大雑把で、面倒臭がりでいい加減だった。公共料金の支払いは催促状が届いてからでないと払わないし、自分の年金も滞納していた。スーパーやディスカウントストアで買えば安く済むものを、コンビニが近いからといって何でもそこで調達してしまう。二、三万する洋服を大して悩みもせずにネットでポンと買うこともあるし、たまにスロットやパチンコに行けば負けて帰って来る。結城は生活にかかる金は折半していたが、鳴海の方はどうやら足りずに実家に電話をかけていたこともあるようだ。  だがこの時は折に触れて、 「いずれ中途採用でどこかの会社の正社員になるつもりだ」  と宣言する鳴海の言葉を、結城は信じていた。  同時に結城自身も、今後の身の振り方を考えなければと思っていた。ちょうど勤めていた温浴施設でアルバイトから正社員になれる道があったはずだと思い出し、責任者に相談を持ちかけた。すると、現在の平均勤務時間を保ったまま、あと三か月ほど働いてくれれば申請できる、という答えが返ってきた。 「その後、本社での研修を一か月間受けから、最後にペーパーテストを受けて晴れて社員ていう流れだよ。でもそのためにはまず、アルバイトリーダーと同じくらいに頑張ってもらわないとね。できる?」 「大丈夫です。お願いします」 「分かった。じゃあ人事に連絡しておくよ。……何だか結城さん、最近変わったね。彼女でもできたの?」 「まあ……はい」 「そうかあ。じゃあ頑張んなきゃだね。何かあったら相談してね」  話が終わったところで結城が席を立とうとすると、ああそうだ、と責任者が声を発した。 「今日の三時から新しいアルバイトの子が来るんだよ。今日が初日だから二時間だけ入ってもらうことになってるんだけど、結城さん、業務について教えてあげてよ。人に教えるのは復習になるし、正社員になりたいならアルバイトの子たちともうまくコミュニケーションとらないとね」  葉月涼(はづきりょう)と出会い、話すようになったのはそんな経緯からだった。  それは雲が秋の形に変わっていく八月の終わりだった。

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