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第37話
「葉月です。宜しくお願いします」
初対面の際の挨拶に、素直で朗らかな性格が表れていた。大学生だと聞いていたが、なかなか礼儀正しい子だな、と結城は思った。髪は染めずに短く整えている。
結城は慣れないながらも業務の説明を行い、葉月は真面目にそれを聞き、メモをとっていた。施設の説明の最後に、従業員専用の休憩ラウンジへ案内した。
「ご説明ありがとうございました。すみませんが、もし実際やってみて分からないところが出てきたらまた教えてもらえますか?」
「うん、もちろん」
葉月は話しやすそうな、人懐っこい雰囲気を全身から醸し出していた。学生の時も、どんなグループともうまくやれる、快活さと穏和さを持ち合わせている同級生というのがいた。葉月は正にそういうタイプだった。
一緒に休憩をとっている最中、結城は雑談の一つでも提供しようと思ったのだが、十八歳の学生がどんな話題を好むのか分からない。鳴海ならこういう時どんな話を振るだろうかと思案しながら、ちょっと飲み物でも飲んで行こうか、と提案した。向かい合って無料の冷たいお茶を飲んでいると、葉月の方が口を開いた。
「あのう、結城さんは毎日勤務されてるんですか?」
「あ……うん、曜日は決まってないけど、週五日、時間は朝八時から五時まで固定でね。葉月さんは?」
「僕は曜日も時間帯もランダムに申請してます。課題提出前とか、試験期間はちょっとシフト入れないんでご迷惑かけちゃうんですけど。てゆうか、結城さん年上ですよね。葉月でいいですよ」
初めから思っていたことだが、葉月は鳴海と違って眼元の雰囲気が柔らかい男だった。常にどことなく微笑んでいるような印象で、口調もソフトでのんびりとしていた。
「ここって従業員は仕事の後、無料で入浴できるんですよね。面接受かった時にそう説明されて、あ、風呂代節約できる、って思わず口に出しちゃいました」
「あ、一人暮らし?」
「はい。しかも俺のアパート、ユニットバスでめちゃくちゃ狭いんですよ」
葉月は大学進学に伴って隣県から上京して来ており、生活費を自分で賄わなければならない事情があるため、たくさんシフトを入れられるバイト先を探していたのだという。
「大学で何の勉強してるの?」
「写真です。でも写真について学べる大学って探してみると結構少なくて……それで親に無理云ってこっちに来たんです。ただ、親から学費と家賃以外は自分で何とかしろって云われてて」
「へえ、写真か。すごいね。ええと、じゃあ将来はカメラマンを目指すの?」
「そうですね。それもいいと思います。でもどちらかというと俺は写真家になりたいんです」
二つの違いが、素人の結城にはよく分からなかった。ざっくりとした葉月の説明によると、証明写真や家族写真、あるいは雑誌の商品カタログなどを美しく撮影するのがカメラマンで、よりアーティスティックな方へ重きを置いたものが写真家ということらしかった。
「まあでも、写真が撮れて、誰かが喜んでくれるなら、どちらもいい仕事だと思うんですけどね。両方やってる人も、もちろんいるし」
葉月の態度は暑苦しい情熱に満ちているわけでも、真面目くさってもいなかった。微かに笑顔を浮かべて語る葉月に、結城は微塵も不快感を覚えないどころか、不思議なほど好感を持った。この子の夢がうまくいきますようにと純粋に心の中で願った。
「そうなんだ、もし良かったら、今度写真を見せてくれる?」
「はい、是非。結城さん、写真に興味あるんですか?」
「う、うん」
本音を云うとそうでもなかったのだが、ここで頷いておいた方が心証が良くなるだろうと思った。
二人ともその日は夕方五時に退勤だったので、何となくそのまま従業員出口まで一緒に向かうことになった。結城が徒歩で帰るのかと訊くと、葉月はバイクで帰ると答えた。従業員用駐車場までついて行くと、そこには傷一つない大型バイクが止まっていた。
「すごい」
「基本的に移動はこれです。高校時代にバイトを三年間続けて買ったんですよ。友達の趣味に付き合って店に行ったら見事にはまっちゃって。上京して来る時も、引っ越しトラックのすぐ後ろを、これに乗って走って来たんです」
きれいな藍色のバイクだった。この流線形に葉月の青春が詰まっているのだ。バイクの知識のない結城でも知っている有名メーカーのものだった。
「かっこいい。こんな大型乗りこなせるなんてすごい。俺、バイク乗ったことってないんだよ。これで走ったらきっと気持ちいいだろうね」
「はい、すごく。もし良ければ、後ろに乗ってみますか?」
「えっ、いいの?」
「はい。ちょうど今朝、彼女を乗せて学校まで行ったんでヘルメットもう一つ乗せてるんですよ。タイミング良かった」
それを聞いて結城は頭をがん、と打たれたような心持になった。それはそうだ。こんな爽やかで気立てのいい若者を、同年代の女の子が放っておくわけがない。何を期待していたのだと自分に云い聞かせる。ショックを受けていること自体がおこがましい。
「彼女、いるんだ?」
「はい、とは云っても付き合い始めたのは二週間前からなんですけど」
「そっか。きっと……可愛い子なんだろうね。写真とかないの?見たいな」
結城は無理をして笑い、柄にもなくそんなことを訊ねた。葉月は少し恥ずかしそうな顔で携帯電話を操作し写真を見せてきた。黒髪のボブヘアで眼元にうっすらと赤いアイシャドーを施し、カジュアルなTシャツを着た女の子が写っていた。一見してあざとさを感じたが、もちろん結城は黙っていた。
「ほら、やっぱり可愛い子だ」
「ええ、ちょっと天然で放っておけない感じなんですよね。でも彼女は、バイクはあんまり好きじゃない、もうしばらくは乗りたくない、って今日云ってました。安全運転には自信あるんですけどね。どうしても怖いらしくて」
「そうなんだ。俺は、すごく、興味あるけどな」
それを聞くと、葉月は今日一番の笑顔を向けてきた。自分をしっかりと見てくれる相手に結城は本当に弱い。たった今この男に恋人がいることが判明したばかりなのに、自分にだって鳴海がいるのに、つい、それを忘れてしまいそうになった。だめだ、と即座に結城は感情の蓋を閉じた。
手渡されたヘルメットを装着した時、さっと葉月が手を伸ばしてきて、ほんのわずかに彼の指先が結城の顎に触れた。反射的に結城は呼吸を止めた。
「ちょっと顎紐確認しますね。指一本分が通るくらいの余裕を持たせて……どうですかね、苦しくないですか?」
「あ、うん。ありがとう」
「緊張してます?」
「えっ?」
「バイク乗るの初めてなんですよね?分かりますよ、俺も最初、友達に乗せてもらった時はちょっと怖かったし」
「う、うん」
「俺の肩を手すり代わりにして後ろに乗って下さい」
結城は内心動揺しつつも、先にバイクに跨った葉月の肩に手を置いて、後ろへ乗った。あまり体重をかけないよう意識した。
「ええと、走ってる最中は後ろのグリップを掴む人も多いんですけど、俺の場合は正直腰に捕まってもらった方が安定感あって安心なんですよね」
「えっ、腰?」
「はい。ああ、でもやっぱり男同士だと抵抗あります?」
「ううん、大丈夫。あの、運転するのは葉月くんだし、安定するのが一番大事だから」
「そうですか、良かった。じゃあ、事故防止のためにもお願いします」
「うん、そうだね。事故防止」
それから結城は遠慮がちに葉月の腰に掴まった。
「葉月くんはさ、運転怖くないの?」
「自転車と一緒でコツを掴めばあとは慣れですよ。それに俺は最初からバイクが好きだったから、あんまり怖いと思ったことないんです」
住所を訊かれて答えると、結城が鳴海と住んでいるアパートと葉月のアパートは歩いて十分ほどしか離れていないことが判明した。
走り出すと体が風に乗るような感覚だった。車と違い、バイクは速度を生身で感じる乗り物だと知った。半袖から出た両腕が肌寒いのと、少し恐怖心があったために、必要以上に強く葉月にしがみついた。これが初めてのバイク乗車なのだから、きっと大目に見てもらえるだろう。そんな打算を頭の隅で働かせながら、見慣れた街並みが過ぎ去っていくのを眺めていた。腕の内側と胸のあたりだけは葉月の体温で温かかった。今日会ったばかりの六歳も年下の子の背中にこうして抱きついているなんて、何だかおかしな気分だった。
そして何故だか結城はセックスのことを考えた。他人に身を任せている時のかすかな不安が似ている。鳴海も結城の想像とは違う方法でいつも高みへと誘ってくれる。
「大丈夫ですか?」
最初の信号で停車した際、葉月はそう声をかけてきた。葉月はどんなセックスをするのだろうという想像がちょうど膨らんだ瞬間で、結城はどきっとした。思えばこの時から、葉月とは友達になれるとは思っていなかった。
アパートの正面に着くと、再び葉月の肩を頼りにして結城はバイクから降りた。
「ありがとう」
「いいえ、どうでしたか?」
「楽しかった。車とは全然違うね。今度、機会があったらまた乗せて」
「良かった。じゃあ帰りが一緒に時にでもまた是非」
だがそれからしばらく二人の帰宅時間がかぶることはなかった。結城は五時に勤務が終了するが、学生の葉月のシフトは早くても、大学の授業が終わった午後三時以降からが多かったからだ。入れ替わりで顔を合わせたり、一時間か二時間勤務時間が被ったりすることはあるが、そこまでゆっくり会話をする暇はなかった。
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