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第38話
日が経つにつれ、葉月は職場での人気者になっていった。葉月の周りにはいつも誰かがいた。どんな人間でも友達にしてしまえるような、天性の懐の深さと優しさが葉月にはあった。彼は同年代の学生アルバイトたちと最初の一週間で非常に親しくなっていたが、結城に対しても変わらずに親しみをもって接してくれていた。それまで結城はあまり積極的に職場で人付き合いをしていなかったのだが、葉月は結城を無理なく話の輪に入れてくれるので自然と他の同僚たちとも言葉を交わすようになり、職場の呑み会や食事会にも参加するようになった。
鳴海と付き合っている以上、葉月と楽しく喋ってバイクに乗せてもらうというのは、グレーな行為なのかも知れない。
実はちょっと危ないことはあった。先週、そろそろ肌寒い時期になってきたからと云って、バイク乗車前に葉月がジャケットを貸してくれたのだが、うっかり返すのを忘れてそのままアパートの中へ入ってしまい、鳴海にそのジャケットはどうしたのかと訊かれた。
咄嗟に結城は、体調が悪くて寒気がするから職場の同僚から借りたと答えたが、その時の鳴海は興味なさそうに、というよりも少し苛立たしげに、
「メッセージで伝えておいた買い物はして来たのか」
と訊いてきた。
「あ……ごめん、気づかなくって」
「お前さあ、バイト終わったら携帯確認する癖つけろよ。コンビニの前通るんだし、何か買って帰った方がいいかとか、少し気回せば?」
「ごめん……今から買って来るから」
結城はすぐさまアパートを出て、ポーチの短い階段を下りた。周辺を見渡してみるが、当然葉月の姿はない。わずか数分前の、楽しかった葉月との時間を想う。
息が詰まる。胸が苦しい。
それは鳴海の心ない態度に傷ついたからなのか、それともこの時既に、葉月への想いが友情とは別のものへ変化し始めていたからなのか。
十月に入ると、葉月のシフトは二週間ほどがらがらになっていた。月の半ばに開催される学園祭の準備のために、シフトを減らしてもらったのだという。
「何点か写真の展示をするのと、冊子を販売することになっているんですよ」
学園祭は十月の第三週目の土日に予定されており、結城はシフトのなかった日曜日に一人で葉月の大学へ足を運んだ。
着いてみると写真が展示されている部屋はいくつもあり、パンフレットには個人名の記載はない。そこで一室ずつ覗いて写真を眺め、葉月の名前がないかを確認していった。要領が悪いのは承知の上だが、わざわざ葉月本人に連絡して邪魔をする気はなかった。そう思っていたのに、たまたまいくつめかの展示室に入ったところで作品の監視係をしている葉月を発見し、眼が合ってしまった。
葉月は驚きながらも、にこにこした表情ですぐに結城に近づいて来た。
「結城さんじゃないですか。来てくれたんですか。嬉しい」
「突然ごめんね。あの、写真を見せてもらいたかったから」
「あっ、そうか……前に、約束してましたよね」
葉月は近くにいた同級生に頼んで持ち場を離れ、結城を案内してくれた。
葉月の展示はセピアカラーで、全て子供たちを写したものだった。どれも子供たちの眼差しが鮮明で、嘘がない瞬間をとらえていた。撮影者である葉月との信頼関係が彼等の表情に表れていた。
「展示できるのは十枚までっていう決まりがあって。本当はもっとたくさん候補はあったんですけど」
「そうなんだ」
展示の中の一枚に、五、六歳くらいの男の子が笑顔で二人が手を繋いで佇んでいるものがあり、結城はそこで立ち止まった。最初は単純に二人の子供の笑顔がいいなと思った。けれど、
『かつてもっていてうしなわれたもの』
というタイトルを眼にした途端、突き落とされたような胸苦しさを覚えた。
これがいつどこで撮られたもので、この男の子たちは誰なのか、二人がどういう心情で手を繋いでいるのか、どうして葉月がこの写真を撮るに至ったのか、知りたいことはたくさんあった。だが結城はひとしきり写真を眺めると、黙って次の写真の前へ移動した。
「どれもいい写真だね」
「ありがとうございます」
最後に結城は、写真科の学生たちの作品が載った冊子を購入した。会計は葉月がしてくれた。
「結城さん、この後はどこか行かれるんですか?」
「うん、午後、三鷹の方で用事があるから。でもその前に途中下車してここに寄ってみようと思って。案内、ありがとうね」
「いいえ。あとそうだ、結城さんにもう一つ見てもらいたいものがあるんですけど」
そう云って葉月は、展示室の片隅に結城を連れて行き、そこにあった自分の鞄から別の冊子を取り出した。
「これ、以前、俺が自費でつくった写真集なんです。良かったらもらってくれませんか?」
「えっ?」
結城は手渡されたその冊子をぱらぱらとめくり、すごい、と呟いた。いくらなのかと訊ねたが、葉月は、
「今日来てくれたお礼です」
と云って代金を受け取ろうとしなかった。
「そんな。だめだよ」
「もし荷物にならなければ、ですけど。ほんとにこれは、金とか要らないんで」
「……ありがとう。帰ったらゆっくり見させてもらうね。楽しみ」
葉月と会って話せたのは実質十分程度だったが、結城は来て良かったと思った。三鷹に用事があるなどというのは、嘘だった。学祭のためだけに来たなどと云えば、葉月に気を遣わせると思ったからだ。
結城はアパートまで待ちきれず、途中立ち寄った喫茶店の隅の席で、珈琲を待つ間に葉月が自費で作成したという写真集を開いた。
そこに載っていたのは、素朴な写真ばかりだった。特別珍しい風景というのは一枚もなく、かつて結城自身もどこかで見たはずの、ありふれた風景のみを切り取っている。そのはずなのに、特別な光輝の一閃をどの写真からも感じ取ることができた。
抜けるような青い空、鉄柵に絡みつく植物、老朽化した建物、公園で水を飲む老人、誰かがつくった質素な家庭料理、満開の季節の花々、どんぐりを拾う子供たちの笑顔。
これが葉月の見ている景色なのだと思うと、結城はわけも分からず切なくなった。こんなに殺伐とした寂しい世界で、どうやったらこれほど多くの美しいものを見出せるのだろう。そして知りたくなった。あの男の眼に、自分はどう映っているのだろうか。
結城は写真そのものに、無闇にあれこれ意味を見出そうとは思わなかった。一枚の写真に写ったものが全てだ。そこから何を感じるか、どう解釈するかは見る側に委ねられている。考えてみて分からなければそれでもいい。いつか、分かる日がくるだろう。そう云えば人から何かをもらったのは久しぶりだなと思った。
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