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第40話

 実は、少し前から鳴海は結城の変化に気づいていた。結城はホームセンターで買って来た蓋つきのボックスに衣類やアルバイト先の書類、それから僅かな私物を入れて整理していたが、鳴海は結城のいない隙によくその箱をあさり、何があるか確認していた。結城のことについては全て把握しないと気が済まなかった。  そしてある日、その箱の中で葉月の写真集を見つけた。二冊あった写真集のうち、一冊には大学名が入っていて、学生たちの名前と彼等が撮影した写真が載っていた。一ページだけ付箋が貼ってあり、そこには『葉月涼』と書かれていた。その名前を眼にした瞬間、鳴海は妙な胸騒ぎを覚えた。しかも、もう一冊の写真集はその人物の単独写真集だった。  自分の知らない人間関係が結城の中で息づいている。  その日から、鳴海はひどく落ち着かない気持ちになった。温浴施設の受付で言葉を交わし始めた時から、結城のことを優しくて弱い男だと鳴海は分かっていた。  鳴海は、昔から自分に自信がなく、常に自分より他人を優先してしまう人間を見抜くのが巧かった。  実家で甘やかされて育ってきた鳴海は、よく自分の世話をし、自分の要求を飲んでくれることが、愛されている証なのだと思い込んで生きてきた。鳴海の母親がそういう女だった。地主の家の長男だった父親に惚れられて嫁いで来たものの、同居する夫の両親とうまくいかず、家のしきたりにも馴染めず、彼女の心の拠り所は一人息子の鳴海だけだったのである。幼い鳴海が癇癪を起こすと、夫も義両親も必ず母を責めるので、彼女は息子の機嫌をとって自分の身を守るという間違った道をとるようになった。鳴海は母親が好きだったし、基本的には子供時代は無邪気で明るかったが、不機嫌なふりをしたり、情に訴えたりすれば、母親が自分の要求を通してくれるということを早いうちから学んでいた。そして無意識に、恋人に対しても自分の母親のような相手を求めていた。  そもそも結城の存在が気になった理由はそこなのだ。  アルバイト先の生花店で、色とりどりの花が並んだショーケースの前に佇む男を見かけた時、すぐにどこかで見たことのある顔だと分かった。その暗い瞳に、鳴海は胸が軋むような痛みを覚えた。あんな暗い顔で美しい花を見つめる客は初めてだった。あの男の、全てを諦めきった静謐で暗い眼に、鳴海は惹かれてしまった。そしてこういう眼をした人間が、決して幸せではないことを知っていた。結城の眼は、母と同じだった。同性に恋をしているという気持ちはまだ認められなかったが、自分のことを見て欲しい、関わりを持ちたい、という単純な欲求から鳴海は頻繁に結城に声をかけた。  最初の頃、緊張し困ったような態度を見せていた結城だったが、徐々に口許に、そしていつからか眼元に笑みが浮かぶようになった。この男はなかなか他人に心を許さないタイプだが、他所見をせずに真正面から踏み込んでいくと、あるところで全くといっていいほど壁が溶けてなくなる。  付き合う上で、他の男を知らないというのも嬉しかった。女との経験はいくら訊いてもはぐらかされてしまったが、そこはあまり気にならなかった。他の男と寝た経験さえなければいい。  もちろん、結城と初めてセックスをした時は緊張した。鳴海自身も男同士のセックスについては実体験はなく、その手の動画の見様見真似だった。昂奮した脳内から手順やテクニックの記憶を引っ張り出していたので、とにかくいっぱいいっぱいだったとしか云いようがない。そして、回数を重ねるにつれ、結城の反応も良くなり、鳴海は自分のやり方に自信がついてきた。元々、体格や性器の大きさには恵まれている方だった。  セックスの最中、溺れんばかりに快感と充足感に浸っている結城を見ると、鳴海の征服欲は充たされる。この男に愛されることの(よろこ)びを教えてやったのは自分だけなのだと確かめることができる。あまりセックスのことを知らない結城は基本、されるがままで、その姿が余計に鳴海の昂奮を誘う。自分の要求は何でも受け入れてくれるし、他の誰かと較べられることもない。このままずっと自分以外の世界を知らずに、傍にいて欲しいと思う。  友人を家に呼ぶことについても鳴海は全く悪いことをしているという感覚はなかった。家にある客用の広間では、よく近所の人たちと一緒に酒盛りをする祖父や父の姿があった。二人は常に地域の人々の輪の中心にいて、その集まりの給仕に明け暮れるのが祖母や母なのだった。  周囲から甘やかされてきた生育環境のためか、あるいは生まれ持っての気質なのか、鳴海には忍耐力に欠け、いつも誰かに認められていたいという承認欲求も強かった。  自分の将来について彼なりに悩んでいなかったわけではない。実家からは、金の無心をする度に、まともな職にありつけないなら早く帰って来いとせっつかれている。そこへ、結城が別の男と親しくしているのではないかという不安が重なった。自分のものであるはずの結城が、他人に眼を向けている。  その日から酒量が増え、輪をかけて散財するようになり、アルバイトの遅刻や欠勤も増えて、最近では夜の仕事のシフトを減らされてしまっていた。  同僚との関係を疑われた結城はうんざりして鳴海に云った。 「もうやめなよ。酔ってるからそんな下らないこと云い出すんだよ。最近呑みすぎじゃない?仕事ない日はほとんど一日中呑んでるじゃん。いい加減にしなよ」 「別に泥酔して暴れてるわけじゃないだろ。文句云うなよ」 「ねえ、バイト代が減ったっていうのに、一体どこに酒なんか買う余裕があるわけ?」  そのまま話の流れは鳴海の友達付き合いのことに及んだ。鳴海の仲間たちが居間で雑魚寝をしていると、結城に眠る場所はない。そういう時は仕方なく、玄関のフローリングの床に敷けるものを敷けるだけ敷いて横になる。そんな夜が二日も続いており、昼間はバイトに出かけ、買い物や食事の準備までしていた。流石にこの日は結城も疲れ果てていた。  結城は鳴海と付き合い始めてしばらくしてから煙草を吸う習慣がついていた。気分を落ち着けるために、夕食の支度を途中でやめて、外で一服することにした。 「どこ行くんだよ?」 「そこまで。ついでに煙草吸って来る」 「ここで吸えばいい」 「外の空気が吸いたいんだよ」 「だめだ」 「何なの?」 「今出て行くなら、戻って来るなよ」 「は?」 「出てったってどうせお前に行くところなんかないだろ。一人で何ができるんだよ」  鳴海はこの瞬間まで結城のことをコントロールできると信じていた。結城の方でも、鳴海に足許を見られていることにかなり前から気づいていた。結城は考えるために、一度口を噤んだ。自分の家には帰れない。新しくアパートを借りる金もない。だからここにいるしかないと思われている。傷つけられても、文句も云えず、離れて行けないと思われている。  自分を助けて抱き上げてくれたはずの男は、いつからこんな風になってしまったのだろう。あるいは元からこういう男だったのを自分が見抜けなかっただけなのか。 『一人我慢してずっと抱え込んでたって、そんなこと誰も思いやってなんかくれないじゃないですか』  葉月の言葉が結城の頭の中に響いた。 「……あんな連中に莫迦にされながら、無理してここにいるよりマシだよ」 「何?」 「出て行ってあげようか?」  結城の静かな反発に、鳴海は驚いた。ここにきて彼は、結城が自分の母親とは違うということを知った。 「お前、俺にそんな口きくってことは、別れてもいいって考えてるってことだよな」 「そうだね。仕方ないと思う。色々考えたけど俺たち、根本的に合わない気がする」  それを聞いた途端、鳴海は取り乱した。結城が別れも辞さないという態度をとったことは、彼にとって裏切りに近かった。自分はこの男の初めての相手で、初めてセクシュアリティを肯定した人間だ。居場所も与えてやった。こいつだって、寝台の中ではいつも自分を求めてしがみついてきたくせに。  鳴海の平手打ちがまともに結城の頬に当たった。打たれると察知した時にはもう遅く、歯を喰いしばる間もなかった。衝撃で体が扉に叩きつけられ、扉が壊れたのではないかというような大きな音を立てた。頭がくらくらしている間に体を引きずられ、寝台に放り投げられ、()しかかられて、身動きできないほどの力で抱きしめられた。  意外にも鳴海はその後、しばらくじっとしてただ覆いかぶさっていた。外の雨の音が頻りに結城の耳に響く。ああ泣いている。男は声を出さずに泣くものだ。かすかな震えと涙の気配が結城に降りかかる。鳴海の震える唇を見ていると、どいてくれとはとても云えなかった。口内に滲む鉄の味を噛みしめながら、できるだけ静かな声で結城は云った。 「苦しいよ」  一言も声を発しないまま、鳴海はしばらくじっとしていたが、やがて手を結城のシャツの下に滑り込ませてきた。結城はとてもそんな気分ではなかったが、すぐに諦めて演技に入った。嘘でも感じたふりをしているうちに、いつの間にか体は勝手に反応していく。  結城はこれまで一度もセックスを断ったことはない。鳴海が要求し、結城が応える。結城が痛みを堪えた分、鳴海がそれを労わる。それが寝台の上での二人の関係性だった。だが今の鳴海は要求だけして、用が済めば結城の体を押し退け、さっさと自分のルーティーンに戻ってしまう。そういう時、結城は自分が透明人間にでもなった気分になる。  結城は、セックスそのものは嫌ではなかった。むしろ好きにだった。相手がこれだけ自分を見てくれる瞬間は、他にないだろう。  けれど、この頃になって結城は気づき始めた。これだけ肌を密着させて、互いを受け入れていても、それほど心は触れ合えない。それまでは、相手をよく知る一番の方法はセックスを置いて他にないと思い込んでいた。  鳴海の心が結城のそれに最も近づいたのは、結城の心を知りたいと懸命に思ってくれたのは、家に帰るのを引き止めたあの一時、あの不器用な少年の瞳で、ここにいろと云ってくれた、あの瞬間だったのかも知れない。  結城が抵抗せずに自分で服を脱ぐと、鳴海は恐ろしいほど優しくなった。体を繋げるとやっと安心できたのか、仲直りしよう、と囁いた。そして、次から疑われるような真似はするな、とも。  結城の中で、この男と別れようと本気で思い始めたのはこの時からだった。

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