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第41話
たった一度、同僚の車に同乗しただけでここまでの事態になったことを考えると、度々 葉月のバイクに乗って帰って来ているなどということは何としても知られるわけにはいかなかった。これまでは、単に運が良かっただけのことなのだ。下手をすると葉月にまで何らかの危害が及ぶ可能性がある。
翌日は土曜日で、午前中の講義を終えてバイトにやって来た葉月と顔を合わせた。唇の怪我はマスクで隠すことができたが、頬の痣は無理だった。仕事にやって来た葉月はすぐに結城の怪我に気づき、どうしたのかと訊ねてきた。
「んー……ちょっと家の中で足を滑らせて、転んだ時に家具にぶつけちゃってね」
「えっ、大丈夫ですか?痛そう」
「ありがとう。でも、もうそんなに痛くないから」
平静を保ってそう答えたが、本当は葉月に心配されただけで結城は涙が出そうだった。それから客の対応をするためにレジへ向かった。その日はなるべく葉月には近づかず、同僚たちとの雑談にも加わらないようにした。
誰かに傷つけられると、誰かの優しさに縋りたくなる。葉月と関われば関わるほど、この男の存在が自分の中で大きくなって、その度温かさが身に沁みて、離れがたくなる。それと引き換えに鳴海への気持ちが冷めていく。そんなことはあってはいけないと思う。鳴海は自分を助けてくれた。一時でも安心して眠らせてくれた。それに、自分の体に触れてくれる男はきっと鳴海以外にはいない。
この日の退勤時刻は葉月と一緒だった。
バイクに乗るのは今日はやめておく、と葉月に告げると、彼はたちまち怪訝な顔をして、
「どうしてですか?」
と訊ねてきた。咄嗟に結城はうまく答えられず、二人の間に妙な間が生じてしまった。
「変ですよ。急に、そんなこと云い出すなんて」
「……変って云われても」
「急にどうしたんですか」
「別に……元々、アパートまでそんなに大した距離でもないし」
「俺、知らないうちに結城さんに何か嫌われるようなことしてましたか?だったら謝ります」
「そんな、葉月くんは何もしてないよ」
「でも今日一日よそよそしかったじゃないですか。何かあったんなら教えて下さい。その怪我だってほんとは何かあるんじゃないですか?」
葉月の勘の良さに結城はどきっとした。けれど、ここはあくまでしらをきり通すことに決めた。
「心配かけたならごめん。あの、よそよそしくしてるつもりはなかったけど」
「そういう態度、ずるいですよ」
その言葉には若干怒りの気配が含まれていた。自分の受け答えがこの優しい男を苛立たせてしまったのかと思った結城は慄然として葉月を見上げた。確かに彼は怒っていた。だがそれは傷つけられた者が表す悲しげな怒りで、どうしたらいいのかという困惑の色も含まれていた。
「この前、彼女と喧嘩したんです。その時もちょうどこんな感じでした。彼女は何が気に入らないのか、ここ数日ずっと不機嫌で、理由 を訊いても答えてくれなくて。そのくせ、何にも分かってない、とか云い出すんです。俺は彼女のことを理解したいから訊いてるのに、向こうは言葉にする努力をしてくれない。だから、分かってもらいたいなら、分かりやすく云えって云いました。今の結城さんも、彼女と同じです。眼を見れば、あなたに何か訴えたいことはあるのは分かります。でも中身までは分からない。俺は結城さんのこと、理解したいと思ってるから訊いてるんです」
「俺のこと、理解したい?」
「はい」
「どうして?」
一瞬、葉月が言葉に詰まったのが結城にも分かった。葉月の迷いの表情が更に広がり、怒りの気配はどこかへ消えていった。
「……あなたが、いい人……だから?」
「……何それ、迷ってるの?」
結城は少し笑みを零した。そのささやかな笑顔を見て、葉月の表情も柔らかくなった。
「ありがとう。気にしてくれて。……あのさ、やっぱり乗せてくれる?」
バイクを示して訊く結城に、葉月は快くヘルメットを手渡してくれた。葉月にその気はないのだと分かっていても、自分を気にかけてくれることに淡い期待を抱いてしまう。そんな自分はやはりずるいのだろう。
どうやって助けを求めたらいいか分からない。迷惑をかけるのが怖い。だから自分を守る時も、誰かを守る時も、逃げ出すことしかできない。
赤信号で停まった際に背中の上で漏らした、
「遠くに行きたい」
という呟きが葉月には聞こえていたのだろうか。少し眼を閉じている間にバイクはいつもとは違う道を走り始めていた。住宅街を抜けて国道に入った時も、結城は何も云わなかった。気づいたら相模川を越えていた。厚木、伊勢原、秦野。葉月はインカムを持っていなかったので、バイクの上で二人が言葉を交わすことはできなかった。結城にしてみればどこに向かうのかも分からない。それでも結城はこの道が、この時間が、ずっと続けばいいのにと思った。今この瞬間、結城の中に不安は微塵もなく、幸せだった。葉月とバイクに乗っているこの時間だけは、何も考えない。今はこの世界に二人きりだ。風と景色と体温を共有しながら、このままどこか遠くへ行きたい。もっと速度を上げて欲しい。不安が全て剥ぎ取られるぐらいに、息もできないぐらいに、体がばらばらになって、モザイク硝子の破片のように空に舞い上がるまで。
松田インターで下りたところからは、特に目を引く建物などはなかった。じきに目的地なのだろうと思っているうちに、真っ暗な山道へバイクは入って行った。暗闇に不安になりながらどこまで行くのだろうと思っていると、山道の途中で葉月はバイクを停車させた。
そこにはこれまで結城が眼にした中で、最も美しい光景が広がっていた。素晴らしい夜景だった。地上の光で遠くの空が明るく見えた。
「すごいね」
「ここ、夜景の名所で知られてるんですよ。もっと見やすいとこまで歩きましょうか。こういう時、自分だけが知ってる穴場スポットとかに案内できたら恰好つくんですけどねえ」
笑ってそう話しながら葉月は坂を歩き始めたが、結城は動けなかった。二人がバイクから降りたのは、樹々の葉が邪魔して美しい夜景の半分しか見えない位置だったが、それでも結城はその光景に眼を奪われていた。少し前まであの光の中の一部だったのだと思うと不思議な気分だった。人間一人一人が生きるために放っているエネルギーが、あの一つ一つの燈 なのだ。
「こんなにきれいな夜景、初めて見たかも」
「気に入ってもらえたなら良かったです」
周辺にはカップルたちの乗る車やバイクが何台も停まっていた。歩いている途中ですれ違った車のうちの一台では、夜闇に紛れていると思っているのか、運転席で過激な行為に及んでいる男女の姿が見えた。結城は顔を背けながら訊ねた。
「ええと、ここには写真の撮影で来るの?それとも彼女と?」
「ここから見える写真は何枚も撮りましたよ。彼女とは一度だけ」
相槌を打ちながらも、葉月の言葉に寂しさが含まれているのを感じ取っていた。後から聞いた話だが、この時、既に葉月と彼女の仲はかなり危うくなっていたのだという。
「あの、走りながら考えてたんですけど」
「うん?」
「先刻はすみませんでした。色々云って。結城さんに避けられてると思ったらショックで」
「ううん、俺の方こそごめん。ちょっと最近悩みが多くて……そういうのが態度に出ちゃってたんだと思う」
「そうだったんですね。もしも、俺に相談してもいいかなって思えることがあったらいつでも聞かせて下さい。役に立てるかは分からないけど、少しでも結城さんの気分が良くなるように頑張ってみますから。もうやたらに問い詰めたりしません」
こういう雰囲気でなら、本当のことを打ち明けても信じてもらえるような気がする。けれどこれは賭けだ。たった今葉月との関係を持ち直したばかりなのに、わざわざそれを揺るがすような真似はしたくなかった。
葉月と一緒に夜景を眺めてとりとめもない話をしている間、鳴海のことは意識して頭から追い出そうとしていた。もしかしたら夜勤の日かも知れない。だとしたらとっくにアパートを出ているはずだ。食事はちゃんとしただろうか。あの男の孤独より、自分の幸せを優先しているなんて薄情すぎると思う。けれどあの微かな呟きを聞き届けてくれた葉月と、すぐに別れることなどできなかった。自分の声などぞんざいに聞き流されるのが当たり前だった結城には、葉月が自分のたった一言のためにここまでしてくれたことが嬉しかった。アパートの前で葉月と別れた時、結城はまるでセックスを終えた時のような満ち足りた気分だった。
しかし、連絡もなしに帰宅が深夜になったことを鳴海は許さなかった。彼は仕事を休んで結城を待っていて、結城が部屋に入った途端、雑誌を投げつけてきた。そして怯んだ結城の側頭部あたりを何度も叩き、しまいには髪を掴んで引きずり倒した。結城は小さな声で何度も謝っていたが、それも全く聞こえていないようだった。
「居候のくせに連絡一つ寄越さないで何やってんだっ!」
鳴海は倒れた結城の背中に何度か蹴りを入れ、結城の荷物を引っくり返して何か怪しいものはないかと眼を光らせた。その後で服を脱げと命令してきた。
「何で……」
「いいから早く脱げ!」
そして口答えするなという風に鳴海はもう一度結城を蹴り、裸になった結城の全身をくまなく点検し始めた。
「誰と寝てきたんだ」
「誰とも寝てないよ」
「嘘吐くなっ」
「本当だって。連絡しなかったのは悪かったと思ってるけど」
「だったら土下座して謝れ!」
それで気が済むならと裸のまま床に手をついたその時、インターホンが鳴った。モニターで対応したところ、隣室の住人だった。連日の騒音に迷惑している、警察を呼ばれたくなければ今すぐ静かにしろとのことだった。
警察がやって来れば結城も事情を訊かれる。そうなれば鳴海が暴行や傷害に問われてしまう。そう判断した結城は鳴海に代わってモニターに応答し、隣人に謝罪して何とかその場を収めた。鳴海はぐずぐずと文句を云っていたが、むしろ隣人がいきなり通報しなくて良かったと結城は胸を撫で下ろしていた。
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