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第42話

 翌日は体も痛み、とても仕事になど行ける気分ではなかった。ただ、鳴海の傍に一日いるよりは仕事をしている方がまだ気が休まる。職場に着いてシフトを確認すると、葉月は三日間出勤しないことになっていた。顔に怪我をしている結城は受付へ立たせてもらえず、責任者から心配され、事情を訊かれた。本来なら通常業務に就けないため帰らなければならないのだが、責任者の計らいで事務作業やトイレ掃除などをして勤務時間を過ごすことを許された。  鳴海には恩があると結城は思っている。それに、もしかしたらこの男は、自分と同じくらい孤独なのかも知れない。  鳴海は表面的には明るい。でもじっと見ていると、光が強い分、その後ろに伸びる影もはっきり見えてくる。この男の闇の正体は、気の弱さからくる孤独だ。  表面的な人間関係ほど邪険にできない性格のため、見せかけの友達はたくさんいるけれど、それは鳴海が気前のいいふりをして、周りに合わせているからだ。本当の自分は誰も受け入れてくれないと思っている。  そんな気持ちが分かるのは自分だけじゃないか。だから早く帰ってあげなければ。傍にいて、自分を助け出してくれたあの男の役に立ってあげなければ。  そう考えたところで結城は死にたくなった。  けれど、結城には一つだけ知りたいことがあった。それを確かめてからでも死ぬのは遅くない。  葉月に会いたい。会って訊きたいことがある。  翌日、仕事が終わってから結城は葉月に電話をかけようと思っていた。雨が降っていたので、結城は帰り道の途中にあるコンビニの軒先に入り、携帯電話を取り出した。  その瞬間に電話が鳴った。画面に映ったのは葉月の名前だった。 「……もしもし?」 「あ、結城さん?こんばんは」  まぎれもない葉月の声だ。強く願えば、以心伝心のような力が働くのだろうか。結城は人生で、この時ほど運に恵まれていると思ったことはなかった。 「こんばんは、どうしたの?」 「今、大丈夫ですか?急ぎの用じゃないんですけど……あのう、その後、どうされてるかなと思って」 「どうって?」 「この前、仕事の後にちょっと峠まで二人で行ったじゃないですか。その時に、結城さん最近悩みごとが多いって云ってたのが心配で」 「えっ、それで……わざわざ電話くれたの?」 「余計なお世話かなとも思ったんですけど」 「そんなことない、ありがとう」 「あれ、結城さん、もしかして外にいます?」 「え?ああ、うん」 「そうでしたか、すみません。長電話する気はないんです。ちょっと気になったから電話しただけで。じゃあ、またバイトで」 「待って、葉月くん」 「はい?」 「あ、あの……もらった電話で、しかも突然で悪いんだけど、お願いがあって。今日、泊めてくれないかな。家に帰れなくなっちゃって」 「えっ、どうしたんですか?」 「ええと……実は、アパートの鍵、何処か外で失くしちゃったみたい」  咄嗟に結城は口から出まかせを云った。 「えっ、それは大変だ。交番とか、管理会社には連絡しました?」 「うん、でも交番には届いてなくて……管理会社は、その、忙しいのか電話が繋がらなかったんだ」 「そうですか……分かりました。ちょっと待って下さいね。今、静岡の実家にいるんですよ。どのくらいかかるか調べますから」 「えっ?」  結城はびっくりして訊き返した。事情を訊ねると、何と葉月は週末を利用して親戚の子供の七五三祝いに駆けつけていたと云うのだ。自分の間の悪さを心底恨めしく思いながら、結城は項垂れた。 「ごめん。その、てっきりこっちにいるものだと思ってたから。他当たってみるよ」 「いいえ、もう行事は全部終わってて、子供たちも帰るところですから。俺はいつ帰っても大丈夫なんです。毎回子供たちの遊び相手みたいな感じで呼びつけられてて……あ、ルート検索できました。今出れば大体二時間かからないぐらいですね。それまでどこかに入って待てますか?」 「だめだよ、そんなの。雨だし、急に帰るなんて云い出したら、ご家族ががっかりする」 「気にしなくていいですよ。どうせまた年末には帰るんですから」 「ほんとにいいから」 「待ち合わせしましょう。ね?」  優しい引力で心が持っていかれた気がした。その声には迷惑そうな雰囲気は微塵もなく、むしろそうしたいのだ、という意思が感じられた。  結局、葉月に勧められたバイト先の近くの居酒屋で待ち合わせをした。結城はあまり食欲も持ち合わせもなかったので、ジントニック一杯とフライドポテトと焼きおにぎりで約二時間をしのいだ。当然その間、鳴海からは鬼のように電話がかかってきた。だが葉月から連絡が入るかも知れないので電源を切ることはできない。長時間の滞在に店員の視線が気になり始めた矢先、店の入口にレインコートをタオルで拭いながら入って来る葉月が現れた。結城を見つけると葉月は、すぐに笑顔を浮かべた。 「あ、良かった。いた」 「葉月くん」 「お待たせしちゃってすみません」 「全然……あの、わざわざ帰って来てくれてありがとう」  こうして雨の中やって来てくれたというのに、結城の中では純粋な喜びよりも、途惑いと信じられないという気持ちの方が強く渦巻いていた。まだ結城には、葉月の善意の行動が信じられなかった。 「あれ……結城さん、何だか怪我、増えてません?」 「え、そう見える?変わんないよ。もう歳かなあ、治りが悪いんだよね」  葉月は訝しそうにしながらも、それ以上は追及せず店員に飲み物を頼んだ。  こんなことをしたら、もう次はない。今度こそ鳴海に殺される。何よりこの行動は鳴海と葉月、どちらに対しても不誠実だという考えは絶えず結城の頭の中にあった。葉月を待つ間、ずっと考えていた。  振り返ってみれば、自分はずっと逃げてばかりだ。母親から逃げて、鳴海からも逃げて。 親は選べないのだから仕方ないとしても、鳴海は違う。明るくて親切で、結城の誰にも云えなかったところを受け入れてくれた。それがいつからかこんな荒んだ関係になってしまった。鳴海は太陽のような明るさで真っ暗なトンネルの中にいた結城を導いてくれた。それが、自分と手を繋いでいるうちに、あの男までもがトンネルから抜け出せなくなって、闇に蝕まれてしまったのかも知れない。  本当は自分が悪いのではないか。人の心の暗い部分を引き出してしまう何かが、自分にはあるのではないか。葉月の温かい顔を眼の前にして、この男も自分と一緒にいたら変わってしまうのだろうかと考える。  葉月は生ビールと、たこわさやチヂミ、枝豆などを注文し、店員が去ってから温かいおしぼりで手を拭いていた。彼が寒い思いをして自分のためにここまで来てくれたのだと思うと、結城は申し訳なさでいっぱいになった。 「鍵のこと、災難でしたね。どこかに届いていればいいんですけど。まあ結城さんのアパートとうち近いですし、困った時はいつでも云って下さいね。ただうち、めちゃ狭いんでそこは覚悟してもらいますけど」 「あれは俺のアパートじゃないよ」 「ああ、友達とルームシェアしてるって云ってましたよね。名義が友達になってるとかですか?」 「あのアパートは彼氏の。俺はそこに転がり込んで居候させてもらってただけ」 「えっ?」  聞き間違えたのではという感じの葉月の声だった。結城はゆっくりと前を見据えた。 「友達とルームシェアっていうのは嘘。彼氏がいてもいいよって云ってくれて……それで四か月くらい前から一緒に住んでる」 「ねえ葉月くん、それでも今日、俺を部屋に泊めてくれる?」  この問いに結城は全てをかけていた。  今夜逃げたいだけなら、アパートの鍵を忘れたままにしておけばいい。もし数日逃げたいのなら、ルームシェアをしている友達が遠方の実家に帰っているとでも嘘を重ねればいい。きっと葉月なら助けてくれる。けれど結城は、もう逃げ道を探しているのではなかった。  もしここで葉月に見捨てられたら、今度こそこの世の中から消えよう。  誰かからの愛のない執着に怯えるのも、繰り返す自己嫌悪ももうたくさんだ。  葉月のような潔浄な人間にまで拒まれたら、この世界で生きていくのは今日で終わりにする。何の未練もない。手に入らない霞のような愛を期待して生きていくのはあまりにつらすぎる。 「はい、もちろん。うちは全然大丈夫ですよ」  あっさりとした返事に結城は自分の耳を疑った。そこへ店員が枝豆とチヂミを持ってやって来た。葉月は追加のビールを頼み、結城にももう一杯呑まないかと訊いてきた。 「それで、彼氏と喧嘩でもしたんですか?」 「喧嘩……そう、だね」 「間違ってたらすみません。結城さんのその怪我って、彼氏と関係あるんですか?」  結城は答えられなかった。鳴海から逃げ出したのは自分のくせに、他の人間に鳴海を悪者だと思われるのは嫌だった。今のような事態になったのは、鳴海だけが悪いのではない。 「結城さんの自身は彼氏に手をあげたこととかって」  結城は首を振った。 「ないよ。あの……この怪我の時は、俺があいつを怒らせて……何だったっけかな」 「うん、分かりました。とにかく、今日のところはうちに行きましょう。それ以外のことは、また明日以降にでも」 「葉月くん、騙すような感じになってごめん。今更だけど……無理だと思うなら、本当に今日は大丈夫だから」 「無理なんて思ってませんって。頼ってくれて良かった」  葉月のその笑みは温かく、その場しのぎのお愛想ではないと結城もすぐに感じ取った。  葉月のアパートは一昔前に学生の一人暮らし向けに建てられたと思われる1Kで、確かに狭かった。バストイレは別々だったし、洗濯機も室内に置けたが、勉強机と椅子、寝台と脚が折り畳める卓袱台、そして白のカラーボックスを置けばもう室内は一杯だった。カラーボックスの中にはカメラと数冊の写真集が置いてある。服や鞄などは備え付けの小さな収納の中に、掃除機やバイク用品と共に入れていて、食器類は台所の水切りかごに入っている分しか持っていないようだった。  シャワーを浴びた後、葉月は静岡から二時間もバイクを運転して来て疲れているだろうに、結城を寝台に寝かせてくれた。 「俺は床でも平気なんで」  そう云って手早く床に座布団を並べ、大きめのバスタオルやらブランケットやらを広げて横になってしまった。遠慮する間もなかった。  ありがとう、と結城が声をかけると、いいえ、と優しい声が返ってきた。それだけで結城は涙が出そうだった。この六畳の部屋がこの世の刺々しいもの全てから守ってくれそうな気がした。

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