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第43話

 翌朝眼を覚ますと、慌ただしく身だしなみを整える葉月が部屋の中を行き来していた。 「あ、おはようございます、結城さん」 「……おはよう」 「すみません、ちょっと寝過ごしちゃって。俺、もう出る時間なんです。結城さん、今日も夕方五時にバイト終わりですか?」 「え?あ……うん」 「じゃあこれ、部屋の鍵です。持って出かけて下さい。今日俺、大学からバイト先に直行するんで。で、申し訳ないんですけど夕方帰ったらベランダの洗濯物、中に入れといてもらっていいですか?」 「はっ?」 「俺、退勤時間夜十時なんですよ。だからお手数なんですけど」  寝台からベランダを見ると、シャツやら靴下やらが風にはためいていた。 「あ、うん……分かった」 「すみません、お願いします。あっ、一限遅れそうなんでもう出ますね」 「うん、気をつけて。行ってらっしゃい」  葉月は風のように出て行ってしまい、他に何も話す余裕はなかった。  結城の手にはこの部屋の鍵が残っている。とりあえず、今日もここに帰って来ていいと云われているようなので安心した。携帯電話は昨晩からずっと電源を切っている。一人で部屋にいる鳴海のことを考えると胸が痛んだ。  その日の夜十時過ぎ、葉月はバイトを終えて帰って来た。部屋に入って来た彼は、すぐにカレーの匂いに気づき、感激していた。 「作ってくれたんですか?」 「ごめんね、勝手に台所使って。……あの、今朝はちゃんと礼が云えなくて……昨日は泊めてくれてありがとう。本当に助かったよ」 「そんなの全然いいですよ。やった、嬉しい」  葉月はカレーを食べている間、何度も、やばい、美味い、と云い続けた。 「そうだ。結城さん、またお願いで申し訳ないんですけど明日の夕方、時間指定で実家から荷物が届くんで受け取ってもらっていいですか?」 「え?うん……いいよ。どんなもの?生ものだったら冷蔵庫に入れとくけど」 「いえ、布団です」 「布団?」 「はい」 「……えっ?まさか俺のため、とか?」 「どのみち、客用布団があれば、今後も便利ですし」  こうして結城は葉月の親切に呑まれていった。実際には届いた布団を床に敷いて葉月が眠り、寝台は引き続き結城に譲られることになった。  葉月の態度は何一つ変わらなかった。結城が男を好きな人種だということに対して、何か予防線を張るような言動や、興味本位であれこれ訊いてくることもなかった。そして、結城が話す時はきちんと耳を傾けてくれた。まだ若いのに、何故この男の内面はこんなにも完成されているのだろうと結城は不思議でならなかった。服についた枯葉を一枚一枚丁寧に取り払うように、葉月の視線や相槌が、結城の不安を取り除いていってくれた。  (のち)に結城は、寝過ごしたと云いながらもしっかり洗濯物を干して行ったり、鍵を任せたり、荷物を頼んだり、それらの頼み事は全て、自分に罪悪感を抱かせないよう部屋に引き留めるための手段だったのかも知れないなと、思い至った。  携帯電話には日に何件か、鳴海からの留守番電話が入っていた。バイト先にやって来ることも考えられたが、鳴海は客としては一度もやって来なかった。葉月のアパートに転がり込んで、一週間目の夕方だった。結城は一人で帰ろうとしたところを、従業員用の裏口で待ち伏せしていた鳴海に捕まった。  葉月と退勤時刻が同じでない日で良かった。  鳴海に詰め寄られながら、結城はそう思った。そして、殴られようが蹴られようが、これは自分がけじめをつけなければならない問題なのだと腹を括った。それでも恐怖心が全て消え去ったと云えば嘘になる。 「お前、今どこにいんの?」  ドスの効いた声でそう訊かれ、結城はまともに鳴海の顔を見られなかった。 「出て行くにしてもさ、それなりの筋ってもんがあるんじゃねえの?」  じりじりと追い詰められ、結城は後ずさりした。それを逃げ出すつもりだと捉えたのか、鳴海がいきなり手首を掴んできた。その瞬間、結城の恐怖心が爆ぜて、必要以上に強くその手を振り払った。 「ごめん、もう帰らない」 「何だよ、それ。それで済むかよ。お前、誰のおかげでこの数か月生きてこれたと思ってるんだよ?死んだ魚みたいな眼して、実家を出ることもできなかったくせに」 「分かってる。俺が全部悪いんだよ。お前には感謝してる」 「だったら誠意を見せろ。今すぐ帰って来い」  これは命令じゃない。寂しい男の懇願なのだと思うと、突然一人にしたことを本当にすまなく思った。それでも、この男と決別する決意は微塵も揺らいでいなかった。 「ほんとにごめん、それはできない」  結城は鳴海と一瞬だけ眼を合わせたが、相手の刺すような視線を恐れてすぐに眼を伏せた。 「お前の私物が残ってる」 「そんなの、全部捨ててくれていいよ」 「俺にあれを分別して捨てろってか。そんな作業させるな。勝手に置いて出て行きやがって。服は布の日に、写真集は古紙回収に出せって云うのか?」  結城ははっとした。 「……それは」 「物はまとめといてやったんだから玄関まで来い。箱を受け取ればいいだけだろ。あんなもの置いて行かれたって、こっちも迷惑なんだよ」  迷った末に結城はついて行った。職場から歩いてすぐということもあったし、玄関より先には決して入らないと決めていた。  鳴海の背中を見ていると、結城は抗いがたい胸苦しさに襲われた。深い人間関係を築いた経験のない結城には、初めての恋人との別れの瞬間がつらかった。鳴海のアパートに着き、もう二度とここへ帰って来ることはないのだと思うと尚更だった。  結城は玄関に立ち、鳴海が奥の部屋から箱を持って戻って来るのを待っていた。戻って来た鳴海は結城の箱を床に置き、 「先にこの部屋の鍵を返せよ」  と云った。うっかりそのことを忘れていた結城は鞄から鍵を探し出した。鍵はキーホルダーについていたので外さなければならなかった。 「葉月涼って誰だよ?」 「……別に、バイト先の」  どきっとしたが、結城は手許に集中したふりをして曖昧に答えた。 「で、今はそいつのところにいるわけ?」 「違うよ」 「そいつ、お前がどういう人間だか知ってんの?本当のことを云わないっていうのは、騙してることと同じだからな」  結城は相手にしないふりをしたが、鳴海のその言葉は結城の胸に突き刺さっていた。  やっとのことでキーホルダーから鍵が外れた。だが鍵を手渡そうとしても、鳴海は受け取ろうとせずじっと視線で結城を威圧してくる。争う気のない結城は、諦めて鍵を玄関の床へ置くと、代わりに自分の荷物が入った箱を持ち上げようとした。  鳴海が掴みかかってきたのはその時だった。壁に押しつけられ、否応なしに間近で顔を突き合わせることになった。咄嗟に結城は身を捩って逃れようとしたが、一度捕まえられてしまうと力の差があるので敵わない。 「離して」  と云いかけた時、左の頬を思いきりはたかれた。唇の内側が痺れ、瞬時にこれは血が出るな、と思った。  ここで怪我をして帰るわけにはいかない。また葉月を心配させることになる。  結城は肩からずり落ちてきた鞄をしっかりと掴み、思いきりそれを鳴海に向かってぶつけた。結城が反撃するとは思っていなかったのか、鳴海は驚いた様子で身を(かわ)した。その隙に走って玄関を出た。  そのまま近くのスーパーに逃げ込み、夕方の買い物客の中を結城は無闇に歩き続けた。すれ違う客や店員の視線が気になり、我に返ると服に赤いしみがついていることに気づいた。鼻血が出ていたのだ。そう云えば顔を庇っていた左腕にも、妙な痛みが走る。  嫌な予感がして、アパートへ帰る前に近所の整形外科に立ち寄った。一時間ほど待たされた後で触診とレントゲンを受けると、まだ怪我をしたばかりではっきりとは映っていないが、もしかしたらひびが入っている可能性があるとのことだった。  自分のことを莫迦だと思った。結局、怪我をしている。しかも、葉月がくれた写真集は取り戻せなかった。  帰宅した葉月は結城の真新しい包帯を見て血相を変えて近づいて来た。 「どうしたんですか、その腕。え、骨折?」 「……まだ分からないけど、ひびかも知れないって。痛みはそんなにないんだけど」 「大丈夫ですか?何でそんなことに」 「ごめんね、こんなだから味噌汁とか焼き魚とか、簡単なものしか作れなかった」 「そんなのいいですよ。怪我してるのに」 「あ、でも卵焼き焼こうかな。何だか朝食みたいなメニューだね。これぐらいしか作れなくて」 「俺がやりますから」  その言葉と同時に肩を掴まれた際、葉月が本気で止めているのだと結城は感じた。その力強さがこの男の優しさの表れだった。結城はもうそれ以上何も云えなかった。  葉月は結城の提案通り、律儀に卵焼きを焼いてくれた。 「美味しい」 「白だしをちょっと入れるのがコツです」  人が作ったものを食べたのはすごく久しぶりだった。鳴海は基本的に料理をしなかったので、いつも外で買って来るか、下手なりに結城が作るかのどちらかしかなかったのだ。  葉月が怪我について追及してくる前に、結城は口を開いた。 「ねえ葉月くん、ずっと訊きたかったんだけど、どうしてあの日、わざわざ静岡から戻って来てくれたの?」 「えっ、どうしたんですか?急に」 「だって、誰かにあそこまでしてもらったことってないから。今だって、こうして部屋に置いてくれてるのが不思議で」 「そう云われても……んー何て云ったらいいんでしょう。あの雨の日に電話をもらった時は、あんまりよく考えてませんでした。単純に結城さんが俺を呼んでるなら行かなきゃと思ったんです。行かないなんてこと、考えられなかったなあ」  見返りを求めないこの男の清さ、誠実さに、自分はどう報いていったらいいのだろう。まるで愛されているみたいに感じてしまう。  愛。愛に準じた行為なら、鳴海が教えてくれた。それを役立てるなら、今しかない。

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