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第44話

 就寝時、結城は腕の包帯を解き、葉月に寝台へ座るよう声をかけ自分も隣へ腰を下ろした。 「あのさ、もし……もし、ものすごく嫌、ってわけじゃなかったら、させてくれないかな」 「えっ?何をですか」 「眼瞑っててくれれば、彼女にされてたのと、多分あまり変わらないと思うから」  そう云って結城は葉月の下半身を触れ、部屋着のスウェットをずり下ろそうとした。一瞬の後、その行為の意図を察した葉月は、心底驚いた様子で結城の手をはねのけ立ち上がった。 「ちょっと、どうしたんですか?そんなことしたらだめですよ」 「ごめん、やっぱり気持ち悪い?」 「いえ……いいえ、違います。そういうことじゃなくて」 「心配しないで。誰かにばれるようなことじゃないし、俺も誰にも云わない。ほら、家賃代わりみたいなものだと思ってよ」 「家賃なんて」 「もちろん、他にちゃんと家事もするよ。今月の給料が出たらちゃんと金も渡すから。あの、これは……俺がここに住むようになってから、葉月くん、気を遣ってこういうこと、できてないんじゃないかなって。だから役に立ちたいんだ」  結城がこんなことを云い出すなど、本当に微塵も考えていなかったのだろう。葉月は言葉が見つからない様子で佇んでいた。 「大丈夫。俺、すごくうまいわけじゃないけど、慣れてはいるから」  途端に葉月はむっとした表情に変わって、 「あなたはそんな人ですか。恋人でもない人間と……しかも、家賃代わり、だなんて、あなたの体はそんなに安いんですか」  と、ぴしゃりと叱るようにそう云い放った。その鋭さに結城ははっとして息を呑んだ。 「……ごめん」  謝ったものの、結城はこの時葉月が怒った理由を、本当の意味では理解してはいなかった。ただ葉月が自分の言動を不快に思ったのなら謝らなければと思っただけだ。  葉月はしばらく黙っていた。どんなに忙しい仕事の最中でも、決して誰かを無視したりしないこの男の沈黙は結城にとって怖かった。葉月に嫌われたら生きていけないと思った。 「結城さん」  今すぐ出て行ってくれと云われても仕方ない。そう覚悟して結城が顔を上げると、思案に暮れた様子の葉月と眼が合った。 「俺に、あなたの人生や価値観に口出しする権利なんかない。今日の怪我のことも、何があったかは話したくないんですよね。でも俺はあなたが好きです。だから結城さんには幸せになって欲しい」  好き、という言葉にぐらりとしながらも、結城は何とか踏みとどまった。  違う。葉月が云っているのは親愛とか友愛とか、そういった類のものだ。自分たちの間に友情以外の何かが芽生えることなどない。見ていれば分かる。この男は根っからの異性愛者だ。現に葉月には彼女がいる。結城は繰り返し、自分に必死でそう云い聞かせた。 「もし結城さんが女性だったら、すぐにでも付き合いたいって告白していると思います。失礼な云い方だったらすみません。でも俺は今、あなたに対してそのぐらいの気持ちを持ってるんです。恋人だったら、あなたにもっと踏み込んでいけるのにって、もどかしく思ってる」 「……ありがとう。でも、俺みたいな人間にそういうこと云ったらだめだよ。いくらたとえ話でも、葉月くんには彼女がいるんだしさ」 「彼女とは何日か前に別れました」 「そう、だったんだ……云ってくれれば励ましたのに」  結城は小さく笑ったが、葉月は笑わなかった。ここで話さなければいけないのはそのことではないと眼が云っていた。こんなに真剣に話をしようとする葉月は初めてで、その様子が普段の朗らかな印象とかけ離れていたので、その空気の違いに結城は気圧されてしまった。気圧されながらも、その真剣さに強く惹かれていた。怖いぐらいのこの眼は、この男の真率さの表れだと分かっていたからだ。 「俺は同性と付き合いたいと思ったことも、もちろん実際に付き合ったこともありません。だから、結城さんに対するこの気持ちが恋愛感情なのかと訊かれたら、今はまだそうだと云いきれる自信がないんです。もしかしたらただ、友情と取り違えているだけなのかも知れない。だから黙っていたんです」  こんな風に真っ直ぐ見つめられたら逃げられない。眼を見てくれる人間には逆らえない。 「結城さんは優しくて真面目な良い人です。だから俺はあなたといると楽しいし、困っているならできる限りのことをしたいと思う。それは友達なら当たり前だろうと、今までそれ以外の理由については考えたこともなかった。でも……今、結城さんが俺にしようとしたこと、ああいうことをあなたが今まで他の人としてきたと思ったら、頭に血が上って、とても許せなかったんです。我慢できなかった」  葉月はやや眼を伏せて結城に訊ねた。 「結城さんにとっては、こういうのは意味のないことなんですか?ちょっと顔を知ってて、家に泊めてくれる相手だったら、誰に対してもそういうことができるんですか?」 「違うよ」  結城はすぐさま否定した。 「本当は葉月くんが好きだからだよ。初めて会った時からいいなって思ってた。でも……そんなこと云ったら気持ち悪がられると思ったから……家賃代わり、なんて云って」 「俺は嬉しいなって思ってますよ。今、あなたに好きだって云ってもらえて。あなたに、他のところへ行って欲しくない。頼ってもらえて嬉しいんです」  その時、偶然ではあったが葉月の指先が結城のそれに接触した。その重なり合った部分を見つめてから、結城は恐る恐る葉月の手の甲を握った。その手を葉月は両手で握り返した。  葉月が自分との関係で悩んでくれたと聞いて、結城は胸がいっぱいだった。これほど誠意をもってこの男に思ってもらえたのなら、それだけで、今この時まで生きてきた価値はある。 「でもまだ、こんな風に考える自分に困惑もしてて……何だか狡い云い方をしてすみません」 「狡いって云うなら、俺だってそうだよ。……まだ、ちゃんとけじめもつけてないのに」 「そのことについては、ちゃんと話しておきましょう」  再び葉月の顔が真剣さを帯びた。 「今日、何があったのか話してくれますか?」 「……いいんだよ、もう過ぎたことだから」 「話したくないかも知れませんが、俺は結城さんに危険な目に遭って欲しくないんです。一緒にいたのに、何も知らなかったなんてことだけは避けたい。そのためには、できるだけ結城さんの事情を知る必要があります」  結城は話さなければいけないと思いながらも、なかなか思いきれなかった。鳴海の元を逃げ出したという自分のした選択を、まだ自分自身で肯定できていなかったからだ。後ろめたい気持ちをずっと抱えていた。話したところで、葉月にまで、それはあなたが悪い、などと云われたら立ち直れないという不安があった。 「ごめん、あまり話したくないな。どう云ったらいいのか分からないし……助けてくれた彼氏に対して、俺が不誠実だったんだよ。恩知らずで薄情だった。それだけの話だよ」 「俺が知りたいのは、結城さんの身に起きたことと、あなたが今、どういう風に感じてるかです。特に怪我についてはちゃんと知りたい。話してくれるまで俺は眠るつもりはありませんから」  葉月は梃子でも動かないという様相で、じっと結城を見つめていた。  結城は全てを話した。今日起きたことだけでなく、鳴海との出会いから関係の変化、家を出るまでの全て葉月に打ち明けた。ただ、親のことは云えなかった。両親の愛に恵まれて育った葉月が、すぐに自分の家庭事情を理解してくれるとは思えなかったからだ。 「結城さんは、その彼氏ともう一度やり直したいとかは?」 「……無理だと思う。俺じゃ足りないところが多すぎて、だめなんだよ。一緒にいても多分、あいつを幸せにはできないと思う」 「恋人に幸せになってもらいたいと思うのは分かります。でも結城さんが苦しまないと彼氏が幸せになれないなんて、それって本当にいい関係って云えるんですか?」 「苦しむなんて。人間関係には我慢も必要だよ。俺は居候だったし、何か取り柄があるわけじゃない。だから、せめてあいつの要求に応えるぐらいはしないとって……いつも思ってて」  葉月はずっと結城の掌を握ってくれていた。ひどく悲しそうに嘆息した。 「それを云うなら、今あなたは俺の家にいます。なら今後は俺の要求に応えるべきですよね?」 「そう……だね、ごめん。あの、何をしたらいい?」 「今後、彼に会ったらすぐに走って逃げて下さい。一人で話をしようとしたり、ましてやついて行ったりするのはだめです。脅されても優しくされても何があっても」 「だって、向こうが別れ話に納得してないのに逃げ回るの?」 「はい。結城さんの気が済まないのは分かりますが、これが俺の頼みです。何も云わずに聞いて下さい」  それから葉月はアルバイト先を変えることを強く勧めてきた。現在の職場は鳴海のアパートやアルバイト先である生花店から非常に近い場所にあったので、意図しなくとも遭遇する可能性は充分にあるというのが理由だった。 「そんなに用心する必要あるかな?」 「彼氏はうちの施設の会員なんですよね?客として来られたら文句は云えません。俺が結城さんと仕事の行き帰りに必ず同行できるならまだいいですが、大学に通いながら勤務する自分と、正社員になるために一日八時間以上勤務しなくちゃいけない結城さんでは、どうしても時間が合わないですし」  葉月は、同じ系列の別の店舗で雇ってもらうことができないか一緒に職場へ相談しに行こうと云ってくれた。まさか男同士の痴情のもつれなどと責任者に云えるはずもなく、葉月もそこは分かってくれていて、学生時代に折り合いの悪かった友人と偶然近所で遭遇し、暴行を受け、以来付き纏われていると伝えた。 「最近、この近所に引っ越して来たみたいで……僕がここに勤めていることもばれてて」 「相談してくれて良かったよ。警察には云った?」 「いいえ……すみません、大ごとにしたくないんです。逆恨みされても怖いし」  職場に面倒を持ち込むなと云われると思ったが、責任者の女性は親身になって話を聞いてくれた。すぐに異動というのは難しいかも知れないが、とにかく本社の人事にかけ合ってみるので待ってくれと云われた。  意外にも早く異動先は決まった。電車で三駅の同じ系列の店舗で人員を募集しているがなかなか応募がないので、行ってもらいたいということだった。かくして二週間後の異動が決まった。慣れた職場を離れ、葉月のおかげで仲良くなれた同僚たちや、教育してくれた責任者と別れるのは寂しいことだったが、すぐに新しい日常がやってきてその慌ただしさに結城は呑まれていった。しばらくは新しい店舗に通い、慣れるだけで精一杯で、他のことはあまり考えられなかった。ちなみに怪我をした腕は幸いひびではなく関節炎だったことが判明し、三週間ほどで完治した。  新しい店舗に勤め始めて二か月が過ぎた頃だったと思う。結城は最寄り駅の自動改札を抜けたところで鳴海を見かけた。鳴海は携帯電話の画面を操作している最中で、多分結城には気づいていなかった。誰かを待っていたのだろうか。結城は雑踏の中に身を隠してその場を通り過ぎたが、鳴海の赤い髪色が瞼の裏に焼きついて、いつまでも離れなかった。  それが鳴海の姿を見た最後になった。生活圏は然程離れていないはずだが、それ以来、二度と鳴海と鉢合わせることはなかったし、もちろん連絡を取り合うこともなかった。今でも結城はグリーンのマルボロライトを見ると必ず鳴海を思い出す。赤い髪の背の高い若者を見ると、振り返らずにはいられない。コンビニでよく買っていたプリンは、いつの間にか生産中止になったのか、どの店舗でも見かけなくなってしまった。  いつか鳴海を受け入れてくれる人が現れて欲しい。自分にそんな権利はないと分かっていても、結城は今もそう願っている。

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