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第45話
初めて葉月にキスをしたのは、一緒に暮らし始めてひと月を過ぎた頃だった。
天気のいい休日のある日、大学の課題に連日遅くまで勤しんでいる葉月を部屋へ残し、結城は近所のベーカリーへ向かった。二十分ほどで戻って来た時、葉月は寝台にうつ伏せの状態で横になっていた。携帯電話を眺めているのではなく眠っているのだと気づき、結城は音を立てないように荷物を置いた。余程疲れているのだろう。もっとも、葉月は決して『疲れた』という言葉は遣わず『充実した』と云うけれど。ちょっとした云い方一つとっても、葉月はいつも前向きな言葉を自然に選んでいる。
カーテンの隙間から入り込む陽光が葉月の襟足を真っ直ぐな線で照らしていた。空気中の埃が輝きながら降り注ぐ、やけに眩しく神聖な一部分。そこへ軽く唇を押しつけてみる。匂いを嗅ぐようにそっと。葉月の体温を唇で感じた直後、我に返って結城は体を離した。
いくら葉月が自分を好きだと云ってくれていても、まだそれが恋愛感情だと分かったわけではない。葉月本人がまだ判断に迷っているのに、自分だって葉月に嫌われたくないと強く思っているのに、こんなことをしてはいけないと思う。もしかしたら葉月は誠実で優しすぎて、嫌悪や拒絶ということを知らないだけなのではないか。
もう二度と同じことはしないと誓いながら、珈琲を淹れようと立ち上がって背を向けた時だった。
「くすぐったいですよ」
という声が聞こえてきて心臓が止まるかと思った。
「……寝てたんじゃなかったの?」
「はい、今起きました。結城さんの唇冷たいんですもん」
しまった。外から帰って来たばかりだったから。
「ごめん、もうしない」
「そんなこと云わないで下さい」
起き上がった葉月は穏やかな微笑みを浮かべていた。無理をして笑っているという感じではなかった。
「結城さんにずっと訊こうと思ってたことがあるんです。それを今訊きたいなと思って」
「……なに?」
「前に結城さん、俺のことを好きだって云ってくれましたよね」
「……うん」
「それ、今も変わってないって、思っていいですか?」
「うん……変わってないよ」
むしろ、結城の葉月に対する思いは日に日に増すばかりだった。いつか自分の中で我慢の臨界点を超えてしまうのではと毎日気が気ではなかった。今先刻、葉月にした行為がその兆候なのだろう。
「じゃあ、俺も同じようにあなたを好きになっていいですか?」
はっとして結城は眼を上げた。耳から入ってきた言葉を理解するまでに数秒かかった。
何と答えていいのか分からず、ただただ眼を丸くしている結城の手を、葉月が親愛に満ちた仕草で握ってきた。冷たい両手の指先をしっかりと掴み少しの間体温を与えてくれた。
「結城さん、アパート探してますよね?」
「えっ」
「すみません。携帯で検索かけてるの、覗いちゃったんです。この前、夜……俺が寝てから今の職場周辺の物件、見てましたよね」
「……まだ、見てただけだよ。でもそのうちに、とは」
「どうして」
「考えたんだ。葉月くんはたとえ他人から迷惑をかけられても、それを云わない人だろうなって。だって優しいから。優しい人に甘えて我慢させるのって、俺、だめだと思う。そういう、我慢させる人間になりたくないから」
「違いますよ。結城さん、勘違いしてる。俺は迷惑だと思ったら相手とちゃんと話し合います。ただ黙って我慢なんかしない。解決策を考えます。俺に解決できないことだったら、俺には何もできないってちゃんと云うし。第一、俺、あなたといて迷惑だと思ったことは一度もないです」
結城は葉月の言葉を聞いて相手に釘づけになった。
「結城さんと、このままずっとこうやって一緒にいたいなって思うようになったんです。すみません、云おう云おうと思ってたんですけど」
親指の腹でそっと手の甲を撫でた後、その手が肘、そして上腕へ移動してきた。結城は一度も顔を上げられず、葉月の手の動きばかり見ていた。
何て優しい手つきだろうと思った。男が男の体をこうも慈しむことができるものかと、尚且つそこに何の気恥しさも見せないこの若い男の清廉さ、朴直さはどこから得たのだろうと、結城は半ば恍惚としながら考えていた。
ふいに陽だまりのような体温と、石けんの香りが全身を包み込み、結城は身を強張らせた。これが初めての抱擁だった。
真っ先に結城が考えたのは、自分は葉月に何を与えられるだろうかということだった。どうすればこの手を放さないでくれるだろう。何を求めているのだろう。何でもする。葉月が喜んでくれるのなら何だってしてみせるから、どうか失望しないで、どうかこの腕の中から追い出さないで。
葉月の唇が耳に触れた時に、結城もこの男のかすかな緊張を感じ取った。結城の様子を窺いながら、まるで結城の中身が溢れ出ないように、花が零れ落ちないように、淡く優しく抱きながら、ただここにあって欲しいと願っているようだった。
額にキスが降りてきた。次に瞼に、そして頬に。
「あの、無理しなくていいよ」
「無理だったらしてません」
結城が顔を上げると唇にも陽だまりが落ちてきた。
最初のキスで分かった。葉月は何も奪わない。結城は人生で初めて許しを得たような気持ちになって、気持ちを奮い立たせて結城の方からもキスをした。
この日、葉月が与えてくれた日向色の愛撫を、今でも結城は時折夢に見る。眩暈がするほど眩しかった。心地良い体温のはずなのに、どんどん胸が熱を帯びて内側から溶けていってしまいそうだった。
セックスだけのことを云えば、相性は鳴海との方が良かったかも知れない。ただ、葉月の体温に触れている間の結城は本当に満たされていた。生まれて初めて体の力を抜いて、誰かに寄りかかることができた。自分は何があってもここへ還 ってくる。二十五年間、自分がずっと欲しかったものはこれだったと、結城ははっきりと感じることができた。
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