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第46話
結城は葉月と生活している間に一度だけ、実家に帰ったことがある。それは結城の実家の事情を知らなかった葉月が、
「結城さんてどんな子供だったの?今度、実家に帰ることがあったら写真でも持って来てよ」
と云ったからだった。
鳴海との付き合いについて打ち明けた時も、実家は遠方にあると嘘を吐いていた。それが葉月に吐いた唯一の嘘だった。
そこで結城はほぼ二年ぶりに実家へ戻り、母の不在を確かめてから、家へ入った。鍵は変わっていなかった。とはいえ、いつ母が戻って来るか分からないので、余計なことをする気はなかった。
一散に二階へ駆け上がり、アルバムが置かれている物置きの前へ立った。何枚か写真を抜き取ったらすぐに出て行くつもりだった。アルバムは、百科事典や参考書、英語教材の本と共に、埃をかぶって並んでいた。経年劣化していて、立ったまま開いたところ、糊が割れ、紐が切れたページが落ちそうになった。無心で七歳くらいまでの一人で映った写真を適当に選び出し、元に戻した。自分の部屋を含め、家の中がどうなっていたのかは知らない。
逃げるようにアパートへ帰って来てから一人、換気扇の下で煙草を吸いながら写真を眺めた。
何て可愛くない子供だろうと思った。赤ん坊の頃の写真は眠たげではっきりしない。保育園のお遊戯会の写真では一人だけ真顔だし、運動会の様子も同様だった。行楽地の写真に至っては陽射しをうっとうしそうに避ける様子が、いかにもこんなところに来たくなかったのだと云いたげだ。服装も母親の趣味なのか、男物とも女物ともつかないような恰好をさせられている。どうしてこんな写真ばかり持って来てしまったのだろうか。
結城は二十歳を超えたあたりから、子供を可愛いと思うようになっていた。将来、自分に子供が持てるかは分からなかったが、すれ違う見も知らぬ他人の子供たちのことはいつも微笑ましく眺めていた。だがこの写真の中の子供は愛せないと思った。可愛くない子ね、という母親の声が蘇ってきた。
葉月に持ち帰った写真を見せたのは、その晩の食事の時だった。
「葉月の頼みだから持って来たけど……これだけ持って来るのが精一杯だった。俺はその写真好きじゃないし。お前の気が済んだら捨てるよ」
全て聞いた後で葉月は写真を眺めながら、
「これ、もらっていい?」
と、唐突に云い出した。結城は驚いて訊き返した。
「これを?何で?」
「だって捨てるなんてもったいない。こんな可愛い写真」
「どこが?冗談云うなよ。可愛くなんかない」
「可愛いよ」
葉月は尚も云った。そして写真を全てまとめると、結城が勝手に捨てないように自分の机の抽斗にしまい込んだ。しまう直前まで葉月は微笑みを浮かべながら写真を眺めていた。それからすぐに食卓に戻り、やっぱり豆腐は絹が正義だね、などと云い始めた。結城の家庭事情については一切訊いてこなかった。
結城が二十九歳になる年、葉月は大学を卒業した。葉月は都内にある撮影所に就職が決まっていた。二人は結城の職場と葉月の職場のちょうど真ん中にマンションを借り、新たな生活を始めた。
新人カメラマンの基本給は非常に低く、仕事量も多いのだが、葉月は写真の仕事ができるということが何よりも嬉しいようで、不服を云ったことは一度もなかった。夜十時、十一時ぐらいの帰宅が続いた時に結城が愚痴を云うと、
「ごめんね、でも俺は写真を撮る以外の仕事はしたくないと思ってるから、今は頑張らなきゃ」
と明るく答えるのだった。一、二年我慢すればきっと今より楽になるだろうと、結城は思い直し、葉月を支えることにした。
葉月が尊敬している大崎南という写真家に初めて会ったのもこの年だ。年末前に大崎の個展が銀座で開催され、葉月の上司であるスタジオの所長に招待状が届いた。大崎は若手の頃、葉月が勤めるスタジオで働いていたことがあり、所長や一部の古株のスタッフとは今でも交流があるとのことだった。
「朔矢さんも一緒に来ない?所長が個展に同行していいって云ってくれてるんだけど、自分でチケット買っちゃってたからさ」
「俺なんかがついて行ってもいいの?」
「奥さん連れて来る同僚もいるもん。勤務時間外だしね。みんはには話しとく」
結城は葉月以外が撮る写真に興味はなかったし、人が多い都内へ出かけるのも苦手だったが、葉月が身を置いている世界をほんの少しでも覗いてみたいと思い、行くことを決心した。流行りの服はよく分からなかったので葉月の持ち物を借り、あまり使わないワックスで髪を整えた。
その日は大崎南本人が会場に来ている日で、彼の周りには人だかりができていた。髪色も服装も地味で背丈も低い男だったが、笑顔が印象的で少年のような眼元をしていた。トルーマン・カポーティが日本人だったらこんな感じかも知れないなと結城はあの有名な映画ポスターを思い出していた。葉月は所長の傍に名刺を持ってずっとついていて、結城は葉月の近くをうろうろしていた。大崎に向かって初々しくお辞儀をした葉月は、初めてバイト先に現れた時とは較べ物にならないほど緊張していた。
「大崎先生のお写真には学生時代から憧れていましたっ、あの、お会いできて光栄ですっ」
力みすぎた挨拶に大崎はもちろん、所長や同僚スタッフも苦笑していたがそこに嫌な雰囲気はなく、全員で若手を温かく見守る雰囲気があった。すぐ後ろにいた結城も大崎と眼が合ったので、会釈をした。挨拶を終えた葉月を宥めるように寄り添いながら、自分はこのために呼ばれたのだなと結城は思った。
大崎の活動は幅広いものだった。国内では主に雑誌やCDのジャケット撮影、更にCM撮影にも携わっているが、風景、建物、生活用品、花、食べ物など、人間を中心とした題材でなければジャンルには拘らない。以前はファッション誌や舞台雑誌などに掲載するモデルや俳優の写真も撮っていたのだが、十年ほど前に撮影のため、ある紛争地帯を訪れて以来、背景としての人間は撮らなくなってしまった。
その大崎がパリで行われる大がかりなプロジェクトに参加することになり、葉月に声を同行しないかと声をかけたのは、個展の翌年の夏のことである。
先生と一緒にパリに行きたいという相談を持ち掛けてきた葉月に対し、結城はショックを隠しきれなかった。大変な思いをしてやっと一つになれたのに、あっさり自分を捨てて遠くへ行くなどと云える恋人が信じられなかった。
「今じゃなきゃだめなの?ここに引っ越して来てまだ二年も経ってないのに」
「ごめん、それは悪いと思ってる。でもこんないい話、滅多にあることじゃないってスタジオの皆にも云われた。大崎先生は厳しいけど、仕事をやり抜けば認めてくれる。周りの人たちも。それに、ヨーロッパには俺の撮りたい景色がたくさんあるんだ」
「スタジオは辞めるの?」
「所長は、何年かフリーランスでやってみて、もし気が向いたら戻って来てもいいって云ってくれたよ」
「そんな綺麗事。憶えてないって云われたら終わりじゃん」
違う。そうじゃない。本当に云いたいのはこんなことじゃない。
「向こうにはちゃんと俺の住むところも用意されてるって。家賃はかからないんだよ」
「海外で生活するなんて、怖くないの?」
「俺は写真が好きだから、そのためなら別に怖くない」
結城は似たような言葉をどこかで聞いたと思った。それから初めてバイクに乗せてもらった時のことを思い出した。バイクが好きだから怖いと思ったことはない。葉月はあの時、そう云っていた。
「そんなこと云ってるけどさ、大崎先生とデキてるんじゃないよね?」
「えっ?」
「今は違っても、いずれはそういう関係になるかもね」
莫迦なことを云っていると、分かっていた。
大崎南が両刀であることは随分前に雑誌を読んで知っていたが、当時彼が有名パティシエと熱愛中であることは葉月から聞かされていた。どういう縁なのかは知る由もない。
葉月の写真家としての成長を第一に考えれば、この話は喜ぶべきことだった。有名な先生のアシスタントに抜擢されただけでなく、現地で写真について学べるだけでなく、フランス語の勉強させてもらえる上に、住居は提供され給料まで出るのだから、破格の待遇と云えた。まだ二十四歳のこんな話は誰にでも来るものではない。
「葉月は写真が一番なんだよね」
「一番とか二番とか、そんなの考えたことない。俺の人生には結城も必要だよ」
「でも俺がいなくても、きっとお前は撮ってるよ。撮らずにはいられないと思う。たとえ、俺が撮るなって云っても」
「そうだね、そうかも知れない」
結城は息を呑んで、じっと暗闇を見つめていた。そして意を決して、以前からずっと恋人に訊こうと思っていた問いを投げかけた。
「万が一、俺と別れることになっても、写真はやめられないだろ?」
今度は葉月が息を呑む番だった。二人の間のパンドラの箱を、今自分が開けてしまったことに結城は気づいていた。
「ごめん」
その言葉が全てだった。結城は打ちのめされた。そんなことない、お前と別れるぐらいなら、と恋人が云ってくれたらと結城は心底願っていたが、それが葉月の本心にはなり得ないことを誰よりも結城自身がよく分かっていた。希望があるとすれば、それは葉月が自分の道で成長して、無事帰って来ること、そしてその時の恋人が、まだ自分のことを愛してくれたら、ということだ。葉月が、今行かなければいけないことは結城にも分かっていた。
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