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第47話
葉月が出て行くにあたって、結城は新しく一人暮らし用のアパートを探す必要があった。
一緒に内見に行ってくれるという葉月を無視し、結城は半ば投げやりな気持ちで新しいアパートを探して契約を済ませ、葉月の出発日には仕事を入れ、見送りには行かないと云い放った。
葉月は、けじめとして同居解消にかかる費用は全額自分がもつと云い、アパートの退去費用や結城の引っ越し代、結城が住む新しいアパートの入居費用など、全ての請求が自分にくるように手続きした。そして残り少ない日々で思い出づくりにどこかへ出かけよう云ってくれたが、結城は決して恋人に歩み寄ろうとはしなかった。家事も全て放棄し、暗く刺々した気持ちで日々を過ごした。
結城の中の基準で、最低限、恋人としてセックスだけには応じなければという気持ちはあったものの、葉月に触れられるとしみるような痛みで眠れない。今も刻一刻と別れの時が近づいているのだと思うと、全身が悲しみで火傷のようにひりひりする。
「頼むから放っといて」
「ごめん、嫌だった?」
「もう触らないで欲しい」
「どうして」
「俺はお前がいなくなることを許せない。待ち続ける気もない。どんな理由があっても」
普通の男ならそれで心を閉じてしまうところなのに、葉月は変わらなかった。決して結城を責めたり不機嫌になったりせず、結城の好きな食事をつくったり、映画を観ようと云って朗らかに接してくれた。
この男は聖人ではないかと結城は思った。もし逆の立場だったら、自分は葉月のようには絶対に振る舞えない。たかだか一年か二年離れただけでだめになるならそれは本気の愛ではない、恋人なら自分の夢を応援してくれるべきではないか、そう云って詰ったと思う。相手の立場が理解できないわけではないのにどうして、と結城は自分を責めた。
「最後に一緒にこいつに乗ってよ」
マンションを引き払う一週間前の午後、葉月はバイクを指して云った。結城はもちろん、葉月の家族や友人の中にも大型二輪の免許を持っている人間はいなかったので、このバイクは明後日、買取業者に引き渡すことになっていた。
「何処かで転べばいい。そしたら一緒に死ねる」
「怖っ。やめてよ」
「何で?」
結城には本当に分からなかった。愛する者同士が何物にも引き裂かれないためには一緒に死ぬしかない。互いの血肉が混じり合い、骨が絡み合う心中。それこそ恋愛成就じゃないかと思った。結城は葉月への愛のためなら持っている全てを擲 って、破滅に向かってひた走る覚悟があった。けれど冗談だと思って笑っている葉月を見ていると、この瞳を殺すことなどできないとも思うのだった。
約一時間後、バイクは無事江の島の海へと到着し、二人は砂浜を散歩した。
冬に海なんて、と結城は毒づいてバイクを降りた。本当は服の下にしっかりとしたインナーを着ていたのでそうでもなかったのだが、寒いことを理由に不機嫌に振る舞った。葉月は持参していた使い捨て懐炉を結城にくれた。
「仲見世通りの方へ行く?」
「行かない」
「水族館とかは?」
「行かない」
「俺、朔矢さんのこと諦めなきゃいけないのかな?」
少し先を歩いていた結城は振り返った。
「何年か離れてても、朔矢さんとは親友みたいに会える気がするんだよ」
「俺たち、親友とは違うよ。近くにいなかったら意味がない。……こんなことなら付き合わなきゃ良かった」
「どうして?」
「友達のままだったら、きっと葉月の夢を応援できたよ」
「でも多分、友達のままでいることなんてできなかったんじゃないかな」
二人が歩いていたのは一年を通して人気の多い海岸だったが、流石に一月の今、騒がしさはない。潮騒がはっきりと耳に届き、遠くにうっすらと富士山の影が見える。
「俺はもし何年か後にこうなるって分かってたとしても、思いきり朔矢さんを好きになる人生を選んだと思うな。そっちの方が、別れがつらくても、あなたを好きにならない人生より何百倍も価値がある」
「そうだね、いい写真を撮るために」
皮肉っぽく結城がそう云っても葉月の表情は少しも険しくならなかった。
「俺、朔矢さんに会うまでは、そこまで写真に対して本気じゃなかったんだよ」
「……そんなはずない。親を説得してまで受験して上京して来たって」
「うん、こっちに来る前、すごく頑張ったのは確かだよ。念願の大学に入って、すぐ友達に恵まれて、みんなと一緒にフォトのイベントに参加したり、会場を借りて個展をやったりして」
「我武者羅ってああいうことを云うんだよねー。入学から半年ぐらいは夢中だったかな。そんな中で自分の写真集を一冊作ってみたわけ。ほら、結城さんにも渡した。すごく達成感あったんだよね。でも、何かが変わるわけじゃなかった。何かさあ、こんなもんなのかなって。それまでの俺の夢って自分の写真をできるだけたくさんの人に見てもらったり、写真集を作ってみたいなってことだったんだ。あの写真集の出来上がりには満足だったよ。でもそれが終わった時、何も変わらなくて、この先ずっとこうなのかな、とか、何をやっていったらいいのかなって感じで……急に撮りたいと思えるものが分からなくなっちゃって。大学生活はまだ続くのに、前みたいに写真に集中できなかった。でも、文化祭に出した写真を結城さんに褒められて、俺は救われたんだよ。あの時から写真を撮る瞬間に、朔矢さんの顔が浮かぶようになった。だから俺にとっては、あなただって写真だって同じように大事なんだよ。俺は別れない。朔矢さんが別れたいって云っても、俺は別れたとは思わないから、そのつもりで」
二人が離れ離れになった時、結城は三十歳で、それからすぐに三十一歳の誕生日がきた。誕生日には葉月からのバースデーカードが届いた。結城は後悔していた。葉月のいない日を、一日、また一日と重ねていくにつれ、あの男に自分がどれだけ救われていたかを思い知った。ずっと葉月に手を差し伸べてもらう夢ばかり見ていた。彼がいなければ光の射す方向が分からない。希望も持てない。自分がどうやって生きていったらいいかが分からない。
パリでの暮らしぶりなど知りたくないと云った結城の言葉を守って、葉月はメールも電話もしてこなかった。代わりに、葉書を時々くれた。そして結城の誕生日には封筒に入ったメッセージカードを送ってきた。離れているのに、触れ合えないのに、相手に囚われることは意味があるんだろうか。
心の持ちようなのだと思うが、葉月と離れてから次第に色々なことがうまくいかなくなった。一人で生きる世の中はひどく冷たく、自分はそこに無防備な状態で放り出されている気がした。もう誰も守ってはくれない。心温まるひと時など訪れない。当時はまだ温浴施設の社員だったわけだが、接客業である以上、嫌でも笑わなければならないのに口角が上がらない。結城は六年勤めた会社を退職し、小さな印刷会社の事務職に就いた。
そんなある日、数か月、葉月からの葉書が途絶えていることに結城は気づいた。葉月と離れて三年目の春だった。
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