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第48話

「葉月に連絡を取ろうと思っても、電話は解約されていて、メールも返信がないし、引っ越したのかエアメールも戻ってきてしまって」 「それは……どうしたんだろう、急に」 「分かりません。でもきっと私に嫌気が差したんだと思うんです。私が葉月に対して返事を書いたのは携帯電話の番号を変えた時と、転職した時だけ。どうしてもっとちゃんと返事をしなかったんだろうって後悔してます」 「でも、葉月くんを連れて行った大崎さんなら、何か事情を知ってるかも」 「はい。訊いてみたんですが、パリで二年目に入った時、突然退職して連絡がとれなくなったとしか……大崎先生は何か分かればすぐに連絡をくれると云ってくれていたんですが、半年前に体調を崩されて、今は葉山で療養しているんです」 「……もしかして、この前知り合いのお見舞いに行っていたっていうのは」 「はい、大崎先生のお見舞いに行っていました。入院先もそうですが、先生は帰国してすぐ、自宅を葉山の別荘に移されたので、あちらで会うことが多いんです」  結城は泉の顔を見つめた。 「葉月と連絡がとれないことに気づいて死ぬほど後悔して、そんな時に泉さんが声をかけてきてくれたです」  セックスなんて葉月と以外したくないと思っていたのに、いざ泉に触れられてみると結城の体は勝手に反応していった。しっとりと肌が馴染む感覚が不思議だった。葉月は日向の匂いで体を包んでくれたが、泉の抱擁はぬるい雨が体に沁み込んでくる様に似ている。そのぬるさが情欲の呼び水になり、次第に内側を浸食していく。抱かれて初めて結城は自分の中の渇きに気づいた。同じ体温を持った男に、体を満たして欲しいと思った。  初めて会った時から、泉の完璧な笑顔の裏には何かがあると思っていた。  結婚指輪、誰もいない家、チャイルドシートがつけられたままのアルファード。この人は優しくて、穏やかだけれど、本当は誰よりも寂しい人なんだ。恋愛をゲームみたいに楽しんでいるようで、本音では必死で愛情を注げる誰かを求めているんだ。  今も、葉月がくれたような光は見えない。でも泉の孤独と自分の孤独が混じり合うと、結城は心が澄んだ心地いい色に全身が満ちていくのを感じることができる。泉の最愛の息子は雪の日に生まれた。それなら彼の孤独も雪の色をしているのだろう。そこへ葉月からもらった自分の水色が溶けて、白藍の温もりに二人で揺蕩う。これはもしかしたら幸せの片鱗なのかも知れない。そう思った時、結城は怖くなった。もう二度と、最愛を失う悲しみを味わいたくはない。 葉山の病院に入院中の大崎南を見舞った日、病室を出たところで結城は大崎の事務所の契約社員を名乗る若い男に口説かれた。大崎とはいつも葉月について話をする。どうやらこの男は、度々その話を盗み聞きしていたようだった。病院の出口まで見送ると云われ、その後で行方不明の葉月のことに関して深く同情された。彼は最近入社したばかりで葉月と面識はなかったものの、事務所に保管されていた写真を見たことはあると云う。 「きれいな写真を撮るなあって思いましたよ」  葉月の写真について褒められた途端、結城は一気に鎧が剥がれ落ちていくのが分かった。病室から外に出るまでの短い距離の中で、彼は巧みに葉月の写真の話に織り交ぜて、さりげなく結城の見た目を褒め、優しい言葉をかけ続けてきた。今考えてみると、男の誉め言葉はほぼ表面的なものばかりで、その眼差しは邪な欲望に満ちていた。誘惑されているのはすぐに分かった。悪い気がしなかったのは、たった一言ではあっても、葉月の写真を褒められたことが結城にとっては大きかったのだ。 云い寄られることに慣れているわけでもなく、いつもなら簡単に応じたりはしないのに、葉月の写真について話せる相手が現れたことで軽く昂奮していた。それに、泉との関係に依存しすぎるのは良くないと考え始めていたところでもあったので、ここで多少節操のない真似をしても、別の人間関係をつくっておくべきかも知れないと考えていた。  けれど中途半端な気持ちで試みたセックスはうまくいかなかった。碌に相手のことを知らない上に、相性も悪かったのかも知れない。男は行為の直前までは優しかったのに、いざそういう状況になると結城の話は何も聞いてくれなかった。男は部屋に足を踏み入れた途端、いきなり結城の唇に吸いつき、服を脱がせようとしてきた。その変貌ぶりに結城が驚いてやや抗う素振りを見せると、その体を手荒に掴んで押し倒し、尚も唇に咬みつき、服を剥ぎ取った。この時点で結城はかなり後悔していたが、もう後には引けないことは理解していた。そこで早々に諦めて男のしたいようにさせていたが、どれだけいじくり回されても結城の性器は反応しない。思うようにいかないことに苛立ったのか、男は舌打ちして手加減なしに自分の雄を後孔に捻じ込んできた。結城は苦痛に苛まれながらも、この場をやり過ごしたい一心で精一杯感じているふりをした。少しも気持ち良くならなかった。  泉さん。  泉さん。  あの人でなければだめなんだ。自分と同じ、孤独を知っているあの人でなければこの体は開かない。  泉ならこんな触れ方はしないと分かっていても、泉のことを想像しなければ耐えられそうになかった。  若い男は事が終わるとつまらなかったとでも云うように、さっさ着替えて無愛想に出て行った。  入れ替わるように泉が現れた。いつもと変わらない品のある佇まいと笑顔のはずなのに、一瞬結城の中を恐怖心がかすめた。今し方行ったばかりの自分のだらしない行為に気づかれ、失望されるのではと思うと、うまく眼も合わせられない。直後に、泉に触れられて分かった。この人は怒っている。別の男とここで何をしたか気づいている。だから取り戻そうとしている。自分を、この体を、取り戻そうとしてくれている。この人に触られたところに、次々と熱が宿っていく。  今までにない激しさで泉に求められて、結城は恥ずかしいほど昂奮していた。先程の若い男とほぼ同じことをされているのに、その所為で無理をしたばかりなのに、むしろ体の深いところの痛みは消えていった。涙が出た。誰かに必要とされていると感じたのはすごく久しぶりだった。 「泉さんに固執してると思われたら飽きられると思って、他の人ともなんて……莫迦でした、ほんとに」 「僕がそうさせたんだよ。僕が悪かった。しかも、君に何も訊かずにあんなこと」 「泉さんは俺に何をしてもいいんです」  結城に柔らかい表情が宿った。 「葉月以外で私のことを知りたいって云ってくれたのは泉さんが初めてです。あの時、泉さんが来てくれて良かった。それに今、泉さんに好きだって云ってもらえて本当に嬉しかった。あなたのためなら何でもしたい。でも、俺は葉月とまだちゃんと別れたわけじゃないですから、付き合う以外のことなら」  そんなに云うなら何故、と泉は思うことがあった。あの箱根神社で絵馬を書いた時だ。  実は自分の絵馬を掛けに行った際、泉は結城の絵馬を盗み見ていた。だからそこに何が書かれているかは知っているし憶えている。それを読んだ時、泉はとても澄徹で美しいものを見た気がした。 『泉さんが自分と一緒に死んでくれますように』  けれど他に大事に思う存在がいながら、一緒に死ぬべき存在が他にいながら、あんな願いを神に託す結城の心持とは一体何なのだろう。泉には理解できなかった。でもあの場で見ないという約束をしたので、そのことは訊けなかった。

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