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第49話

「大崎先生が話してくれた中で、一つ気になっていることがあるんです。葉月は現地で知り合ったある外国人スタッフの方と、よく一緒に行動していたそうです。食事に行ったり、お互いの家に遊びに行ったりもしていたとか」 「……それって」 「はい。もしかしたら、もう葉月のことは諦めなきゃいけないのかも知れないって思ってます。でも、敬愛する大崎先生のところを突然辞めて、一体どこでどうしているのか……葉月が何のあてもなく写真をやめるわけないんです。俺より写真を選んだんですから」  結城の言葉には確信に満ちた響きがあった。 「葉月くんはまだパリにいるのかな?」 「大崎先生の話によると葉月の実家にも連絡は入っていないそうです。葉月は両親のことが好きでしたから……帰国していれば何かしらコンタクトを取ると思うので」 「そうか」 「実は二年前からちょっとずつ貯金しているんです。パリへ……葉月に会いに行きたいと思って、なるべく切り詰められるところは切り詰めて。薄給ですから、まだそんなには貯まっていないですけど。一目でいいから会いたいんです。俺を嫌いになったのならそれでもいいから、何か言葉が欲しい」 「それなら協力する。僕も一緒に行くよ」 「それは……お気持ちは嬉しいですけど、まだそんな具体的な計画があるわけじゃないんです。まずは旅費を貯めないと」 「それは心配しなくていいよ。ちょっと待ってて」  泉は文房具などを入れる抽斗の奥から通帳を取り出し、中を確認した。 「結城くん、これ」  泉は自分の通帳の最終頁を開いたまま持って行ったが、結城は慌てて眼を逸らした。 「こういうのは、見せたらだめです」 「いいから。ほら、ここに一二〇万入ってる。物価の高いパリでも、大人二人で二週間は確実に過ごせる。ホテルや食事を節約すればもう少しいけると思う。これでパリへ行こう。僕も一緒に行くから」  結城は信じられないといった面持ちで泉を見た。この口座は海晴が生まれた年につくった貯蓄用のものだ。離婚前までは四百万ほどあったが、離婚の際、半分以上を樹里に渡していた。これはその残りの金で一度も手をつけていなかった。 「もし彼に再会できてうまくいったら、その時は邪魔しないから。休暇がとれるか心配だけど」  泉は優しく微笑んで結城を抱きしめた。  このままでは自分に勝ち目はない。  泉は自分の恋の成就を一旦葬ることにした。まずは結城の望み通りにしてやろう。実際にパリに行って手掛かりがないとなれば、この男も流石に諦めがつくはずだ。それに万が一、葉月涼に再会できたとしても、彼がまだ結城を愛しているとは泉には到底思えなかった。愛する者と二年も音信不通でいられるわけがない。その男の結城への愛は既に死んでいるのだ。泉は心の中で結城を憐れんだ。愚かにも、そんな薄情な男をまだ恋人だと口にしている。その男に対する結城の愛を枯死させなければ、そして現実を受け入れ、新しい道へと歩き出すことを自ら選ばなければ、彼は永久に囚われたままだ。  だがあくる日、そこにあるはずの温もりを探して泉が眼を覚ますと、結城の姿は消えていた。家全体に彼の気配がないことにはすぐに気づいた。真っ先に玄関に行ってみたが、結城の靴はなくなっていた。洗濯かごの中に畳まれて入っていた寝間着の服以外、結城が昨日この家にいたことを証明するものはどこにもなかった。  その後でテーブルに置いたはずの通帳がなくなっていることに気づいた。代わりに何故か、海晴が保育園でもらって来た、誕生日の紙の王冠が棚からテーブルの上へ移され、更に泉の財布が開いた状態で置かれていた。  嫌な予感がした泉は、財布の中を確認した。クレジットカードや現金はそのままだったが、通帳と同じ銀行のキャッシュカードが消えていた。結城が持ち出した可能性以外は考えられなかった。  もちろん、暗証番号が分からなければ現金を引き出すことはできない。けれど、結城は気づいている。 『たんじょうびおめでとう みはるくん 2がつ8か』  結城は海晴の年齢を知っている。逆算すれば生まれ年も判明する。正にその通りで泉は息子の生年月日を暗証番号にしていた。  泉はすぐに結城の携帯に電話をかけてみたが、予想していた通り電源は切られていた。電話を置き、無心で服を着替え、顔も洗わず、周辺を探しに出た。近くのバス停やコンビニ、公園などを見て回ったが結城の姿を見つけることはできないまま、無情にも出勤の時刻が近づいてきた。  家に戻ってから、とにかく落ち着こうと思った。あの一二〇万を失って即座に生活に影響が出ることはない。月々の給料の振り込み先は別の銀行口座で、そこにも何かあった時のために三十万ほど入っているし、預金額は少ないが別の口座もある。定期預金も持っている。ネットにも株や投資信託がある。  結城を窃盗犯にすることだけは何としても避けたかったので、警察を呼ぶことは考えなかった。身支度を整えながら色々と思案に暮れたものの、とりあえずは仕事に行くしかないと思った。  その日、泉は仕事を終えて一度帰宅してから、泉は結城のアパートまで車を走らせた。だが、結城の部屋に灯は点いておらず、郵便受けには広告やダイレクトメールが挟まっていた。 不安だった。金を持って行かれたことよりも、結城が何をしようとしているのか、全く読めないことが不安だった。昨日まであれほど信頼し合って身を寄せ合っていたのに、別れの言葉一つ、髪の毛一本残さず褥から消えてしまうなんて、そんなことがあるだろうか。  この時の泉はまだこの事態を信じられず、もしかすると自分たちの間に何らかの行き違いが生じているのではないかという気持ちが残っていた。もちろん心配ではあったが、きっと結城は連絡をくれるだろうとこの時までは思っていた。  結城に持って行かれた銀行の通帳とキャッシュカードがレターパックで戻って来たのは翌日のことだ。消印は結城が住むアパート近くの郵便局のものになっていた。通帳を確認すると、残高が四十万円になっていた。やはり暗証番号はばれていた。全額持って行かれなかったことに安堵もしたが、違和感も覚えていた。  八十万は引き出されたということだから、とりあえずパリに行って、帰って来ることはできる。ホテルや食事など、結城が滞在中どのように過ごすか全く予想がつかなかったので、具体的に何日間が限界とは云えなかったが、ひと月もつかどうかといったところだろう。  四十万を残して通帳とカードが返ってきたこと、更に云えば失踪当日に冠と財布がテーブルの上に目立つように置かれていたことは、最後の結城の良心の表れなのかも知れなかった。 「そんなわけないだろ、莫迦か」  事情を聞いた白石は、まず驚き、それから怒りを露わにした。詐欺に遭ったのだとはっきり云われた。そして、その金は諦めろ、とも云った。 「期待はできないけど、一応警察には相談したんだろ?」 「そんなつもりないよ。きっとパリにいる恋人に会いに行ったんだよ。何もかも片がつけば連絡が来るよ」 「ロマンチックか。眼を覚ませ」  そんな風に白石が云うのも無理はない。この友人に限らず、誰もが恐らく今の自分に同じことを云うだろう。 「元々、旅費として六十万はあげてもいいと思ってたんだし」 「あげたのと無断で持ってかれたのとじゃ、わけが違う。百歩譲ってそのパリの恋人の話が本当だったとしても、二年近く音信不通の、所在も分からない恋人に会いに行くなんていかれてる。とっくに切れてるって考えるのが普通だ。なのに、人の金を盗んでまで会いに行こうとするなんて」  白石の意見には同意できるものの、だからと云って泉は結城を悪者にする気にはなれなかった。だが、尚も結城との関係を説明しようとした矢先、ふと分からなくなった。本当に詐欺ではないと云いきれる根拠は何だ。あの男の話が全て虚構だという可能性は?何より、二人の信頼関係を破綻させても構わないと考えたから結城は金を持ち出したのではないか? 「大体さ、あの結城って子のどこが好きだったわけ?」 「……どこって」  自分は結城のどこが好きなのか。改めて考えてみるとよく分からなかった。真っ先に思いついたのはあの黒い瞳だった。そしてあの背中。寂しげな微笑み。でも他人に伝えようとすると、どう云ったらいいのかよく分からない。  その日は店にOの知人の占いで有名な女性が来ているということで、一番広いテーブルが賑わっていた。圧倒的に女性が多く、泉が眼をやった時には一組のカップルが占い師の言葉を聞いて感嘆の声を漏らしていた。 「お前も塩田さんに見てもらって来いよ。何ならその詐欺に遭った話を打ち明けてみろ。ネタにはなるから」  白石にそんなことを云われ、泉は女性たちが捌けたタイミングでそのテーブルに近づいていった。占い師というのは地味で無口なイメージがあったが、塩田というその女性は愛想のいい笑顔で、どうぞ、と席を勧めてきた。カラーリングの行き届いたウェーブの髪に、おしゃれなボストンタイプの眼鏡をかけ、ハイウエストのストレートデニムを穿いている。考えてみればフリーの客商売なのだから、胡散臭さや野暮ったさは醸し出してはいけないのだろう。  椅子に座ると、手を見せて欲しいと云われ、その通りにした。どこからかラベンダーの香りがする。 「あらすごい。モテますよね?お金にも恵まれてる」 「いえ、そんな」  褒められた後で料金を訊くのを忘れたことを思い出した。それで何を見て欲しいのか、という占い師の問いに、泉は恋人がいなくなったことを告げた。 「元気でいればいいんですけど。全くの音信不通で、まるで最初からいなかったみたいに」  占い師の左右に座っていた女性たちが、一斉に顔を引きつらせるのが泉には分かった。  気づくと占い師は泉の眼ではなく、やや後ろのあたりを見ていた。何かにとり憑かれたような視線が怖かったが、やがて彼女は一度顔を伏せ、正気に戻った顔で泉を見た。 「その人はあなたの本当の恋人じゃないんですよ」 「はい?」 「その人にはもう他にいるから。あなたももうちゃんと別の、運命の人と出会っているし」 「運命って」 「出会うべくして出会う運命の恋人をツインレイと呼ぶんですよ。生まれる前、一つだった魂が地上に降り立つ時、二つに分かれるんです。魂の片割れのことよ。あなたの片割れも、そのいなくなった人の片割れも、他にいるんです」  だから新しい恋をしなさい、とその占い師は云うのだった。それで終わりだった。鑑定料は五千円だった。莫迦らしくなって、泉は白石との別れの挨拶もそこそこにその晩は店を出た。

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