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第50話

 結城がいなくなってから四日後のことだった。  平日の夜、泉はいつもより少し価格帯の高いレストランに葵を連れて行った。  葵の何かを食べる姿が泉は好きだった。彼の食事の作法は眼に余るものがあったが、何でも美味しそうに食べる表情は魅力的でさえあった。最後のデザートを食べている時に、泉はあくまで穏やかに切り出した。 「結城くんに連絡をとったでしょう」  葵の視線が硬直したまま、こちらを見ている。彼の口許に残っていた笑みの余韻が一瞬にして消え去った。 「僕の携帯を開いて、結城くんの連絡先を転送した。その後、それを削除したよね」  泉は証拠として結城からメッセージのスクリーンショットを送ってもらっていたが、ぎりぎりまでそれを提示する気はなかった。葵が嘘を吐かない子になったと信じたかった。 「……ごめん。でも、その人と大した話はしてない」 「大した話じゃないかどうかは僕が決める。何で結城くんに連絡をとったの?」 「……泉さんのことを本気で好きなのかどうか訊きたかった。文章なんか悠長に打ってられなくて、電話をかけたんだ」 「そう」 「あの人、ムカつく。俺は泉さんのために我慢するって云ったのに。だって、泉さんがあの人を好きならそれは仕方ないから。そう云ったら『我慢強いね。でも葵さんはもう少し、泉さんを満足させられるように頑張ったらどうかな』だって。何あれ、大人ぶって、完全に俺のこと莫迦にして」  これは泉には意外だった。結城がそんな言葉を口にするとは思えなかった。やはりあの鋭さはプライドを傷つけられた怒りの表れだったのだ。それにしても電話の相手が若いと分かっていて、そんなことを云うなんて。泉は嬉しいような悲しいような、よく分からない気分になった。 「しかもあの人、他に好きな人がいるんじゃん」  釈然としないものを吐き出すような声色で葵は云った。  「海外に行った彼氏を待ってるって云ってた。泉さんのことは好きだけど、正式に付き合ってるわけじゃないって」 「うん、そうだよ。結城くんのことを恋人だって云ってたのは、そうなったらいいなっていう、単なる僕の希望」 「じゃあ嘘じゃん。嘘はだめって泉さんが云ってたのに」 「だってそう云っておかないと、君は僕の生活にどんどん入り込もうとしてくるから。君と出会った時には、僕はもう結城くんが好きで、彼と寝た後だったし、彼だけで充分だったから、本音を云えば君の相手をしてる暇はなかったんだよね」  傷ついた眼がこちらを見ている。それでもまだこの子は自分を愛している。泉にはそのことが分かった。泉が放つ、ひどく冷たい視線に気まずさを覚え、泣きそうになりながらも、葵はここでこのことを問い詰めなくては気が済まないようだった。 「メッセージの履歴、全部遡って見たけど、いつも泉さんから結城さんに連絡とってたよね。会ってすぐに、家にも泊まってる。俺には家の場所だって教えてくれなかったのに」 「そうだね」 「出会った時期もほとんど変わんないのに」 「うん、だからどうしたの?結城くんと君が、何で同じだと思ってるの?」  葵は泉をじっと見つめ続けていた。やがてやって来る痛みを覚悟するための沈黙だった。 「……俺が十代で、結城さんが三十代だから?俺が子供で、あの人が大人だから?」 「違うよ。僕が葵くんより、結城くんのことが好きだからだよ。分かってるくせに」  まるで瞬く間に変色して死んでいく植物のように葵は硬直していた。 「……あの人、外国に行ってる彼氏を待ってるんでしょ?それなのに、泉さんと」 「それでもいいって云ったよ。もし彼氏が帰って来たら、僕は二度と結城くんに連絡しないし、会おうとも思わない。そういう約束をした。好きなんだから、それぐらいできるよ。ねえ葵くん、僕と君も、遊びの約束だったよね。それにしては、少し立ち入り過ぎたと思わない?」  葵の視線が何かを感じ取って慄いた。  自分が大事にひた隠し、愛していた存在に許可もなしに葵が手を伸ばして触れようとしたことが、泉は許せなかった。  結城に連絡をとったことを葵自身から云い出してくれれば、まだ良かった。云われなければ黙っているつもりだったのだろう。大事なことを云わないのは嘘に限りなく近い。これが泉の懸念している葵のもう一つの心癖だった。  付き合っていく中で、泉には葵のことがよく分かってきていた。  葵の嘘を吐く癖は多分直らない。子供の頃から周囲に怒られたり、いじめられたりと疎外感を味わったりしてきたことが原因で、この子には嘘を吐いて自分を守る癖がある。それに、自分の前では聞き分けのいい子を演じているが、本質的にこの子は気性が荒い。欲しいものは何としてでも手に入れなければ気が済まない。邪魔者は徹底的に排除したがる。だから勝手に泉の家を調べてやって来たり、結城に連絡をとったりして、平然としていられるのだ。 「葵くんは悪い子じゃないと思うよ。でも分別が足りない」  泉は最後に珈琲を一口飲み、深く息を吐いて、眼の前に座る若い子を見つめた。 「ごめんね」  それから初めて会った時のように紙幣を取り出して葵の前へ差し出した。今回は一万円札を二枚重ねて置いた。 「待って、待ってよ」  十八歳の青年の取り乱した声は、周囲の視線を集めた。  泉は一度だけ振り返って、葵を見つめた。ひどいショックを与えられて、取り乱しかけている。  この若者に対する感情は、いつの間にか最初に泉の想像したところを遥かに上回っていた。それでも許すことはできなかった。何より、葵との関係はそろそろ終わりにすべき頃合いだった。だから、葵の方からも自分を嫌って欲しかった。できるだけ酷薄な言葉を突きつけなければ、そうして憎まれなければと思っていた。  そう思っていても、傷ついた葵の瞳を振り払うのは容易なことではなかった。  明るく振る舞っている時でも、葵にはどこか痛々しさが付き纏っていた。彼が十八年の人生の中で奪われてきたもの、あるいは最初から与えられなかったものを知る度に、慰めてやりたくなった。なめらかな若い背中を抱く度に、泉は自分の青春時代を思った。  泉は身を切る思いで、その場を立ち去り、店を出てから葵の連絡先をブロックした。  知らない子だ。自分はあの子の恋人でも、父親でもない。若い子に興味はない。

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