22 / 409

第22話 待ち人

 抱き上げてみて、驚くほど香彩(かさい)は軽いと竜紅人(りゅこうと)は思った。どれくらいの間、食欲をなくしていたのかと思うと、それだけで申し訳なく堪らない気持ちになる。  だがそれほどまでに想われていたのだと思うと、竜紅人の心の中には愛しさと、そしてある種の征服感のようなものを感じてしまうのも、また事実だった。   すっかり眠ってしまった香彩を横抱きにして、湯から上げる。  脱衣場に移動してから、香を抱き締める腕に、ほんの少し神気を込めて、自分と香彩に付いていた水滴を飛ばした。  お互いに着替えがなかったので、元々湯殿に入る為に着る湯浴衣を着替え代わりにする。  竜の尾と自身の腕で支えながら、先に香彩の着替えを済まし、自分は湯浴衣の下に下袴を履いて、腰紐をきつく締めた。  ああ、気配がする。  一体いつから待っていたというのか。  こんな時に何の用だと言う気はなかった。彼もまた用事がなければ、こんな時にこんな所へなど、来たくはなかっただろうから。 (……こんな睦言の気配のする、濃厚な場所など)  何も用事もなく、こんな刻時に出向くなど、用がなければ単なる嫌がらせではないか。  香彩を再び横抱きにして、先程の部屋へと戻る。  その寝所の酷い有り様に、竜紅人はため息をつきながらも、妙に心が昂るのを隠しきれなかった。  香彩を少し離れた所で下ろしてから、竜紅人は古い敷栲(しきたえ)を、予め持ってきていた新しい敷栲(しきたえ)と取り替える。  改めて香彩をそこへ寝かせて、頭から被ってしまわないように、腕を出して新しい上掛けを掛ける。  無理を強いた所為か、香彩は目覚める様子がなかった。 「……すまない」  そう言葉にしながら竜紅人は、香彩の髪を一頻り撫でて、その柔らかな額に接吻(くちづけ)を落とす。  これからも酷い嫉妬をして、無理をさせてしまうかもしれない。  それでも。 「……それでも俺は、もう……お前を手放すことは出来ない」  この心の奥に沈殿していく、嫉妬の原因の根本なんて、分かり切っている。  そう近い将来に。 (……お前が俺以外の奴に、足を開かないといけないのだと、分かっているから)  それは香彩が生まれた時から決められた決定事項だ。  『力』を継承する、成人の儀。  縛魔師(ばくまし)の筆頭、大司徒(だいしと)は中枢楼閣の四つの門を護る式神、四神を従えている。  そして四神達の『力』を借りた、城を覆い尽くす程の甚大な護守(ごしゅ)の力。これらは全て大司徒(だいしと)の身体に宿るのだ。  それは引き継がれてきた、伝承法。  それは大司徒(だいしと)の『力』の源でもあり塊でもある、『精』に宿る四神と護守を、身体の奥深くに受け取ること。  そう、契るのだ。  だが香彩はそれを知らない。知ってはいけない習わしだ。  知らさせるのは、その時が来る直前。  だから意識せずに、無邪気にも甘えてその者に懐く。  だから余計に、嫉妬する。  嫉妬して、その強い気持ちのまま抱いて。  その時が来たら、自分の匂いしかしないように、自分の熱を抱えさせたまま差し出すしかない。 (……あれは俺のだ……!!)  竜紅人は自身の寝所を後にした。  いつの間に降り出したのだろうか。  粒の小さい絹の糸の様な優しい雨が、中庭の神桜に潤いを与えていた。普段であればその光景を綺麗だと思っただろう。  苦々しくそれを見遣って、屋敷内の渡床(わたりどの)を、気配を辿りながら歩を進める。  香彩のいる寝所から、一番遠い部屋を選んだのは、きっと香彩に対する配慮だったのだろう。  竜紅人は部屋の引き戸を、そっと開け、中へと入る。  最低限の紅麗燈の灯された部屋で、彼は長椅子に掛けたまま、何かを強く迫るような目付きで竜紅人を見詰めていた。  そのあまりの居た堪れなさに、竜紅人はその場で両膝を付き、頭を下げる。    蒼竜の館には結界が張ってあった。  温度差の苦手な真竜の為に、一定の暖かさを保つ為の結界であり、また外部からこの蒼竜の館を隠す為の結界でもあった。  ここに入れるのは、蒼竜と蒼竜に近しい者のみ。  そしてこの結界を張り続けている者のみ。 「……随分と待たせてくれたものだ」  面白そうにくつくつと笑いながら、睥睨の目で大司徒、紫雨(むらさめ)はそう言ったのだ。

ともだちにシェアしよう!