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第33話 春冬の長雨 其の一

   それは絹糸の様な、優しい雨だ。  雨粒の小さな雨が、静かに柔らかく全ての生きとし生けるものに、慈しみと育みを与える。  暖かなそれに草木は成長し、花の蕾も膨らんで、厳しかった冬がようやく終わる。  そんな春の訪れを告げる雨の音が、こんなにも憎らしく感じるなど、(りょう)は思いもしなかった。  彼らは、この場から掻き消えた途端に、無徐にも雨を降らせたのだ。  それは雨神(うじん)の儀の兆しである、春冬(しゅんとう)長雨(ながさめ)の始まりだった。  決断したのなら動けと言わんばかりのそれに、心内で嗤う。  真竜とは無慈悲な生き物だと、療は改めて思った。  全体を見つめ、個を見ない。  たったひとりの人間の、揺れ動く心の機敏など、振り返りもしなければ見向きもしない。彼らにとって実に些細なことに過ぎないのだ。  自分の中にもそんな部分がある。  降りかかる火の粉があれば、払う為の手段を講じるのみだ、と。 (……いま大事なのは香彩(かさい)の『術力』だから)  ただその為だけに、彼らがここへ現れた理由も理解できる。 (理解は……できるけど)  遣り切れないのだと思うのは、果たして間違っているのだろうか。  思考の海に揺蕩う意識は、ぱりん……と何かの割れる音を聞いて浮上する。  療は驚いて、びくりと身体を震わせた。  紫雨(むらさめ)卓子(つくえ)の上にあった盃を払ったのか、それは下へ落ちて無残にも割れてしまっている。  彼は何を思ったのか、銚子の持ち手を掴むと、直接口を付けて酒を飲み始めた。ごくり、ごくりと嚥下する度に喉仏が動く。唇の端から零れ落ち、首筋へと這う酒を気にもせずに、紫雨は全て飲み切った。  荒い息を吐いて、手の甲で口を拭う彼の様子を、療は何も言えないまま見つめていた。  無茶な飲み方だ。  だがこれぐらいで酔う紫雨ではなかったし、この量では酔いたくても酔えないのだと療は、長年の付き合いで分かっていた。 (……一層のこと、酔いしれてしまった方が、楽だったのかもしれない)  酔いしれて全ての事を、終わらせてしまった方が楽だったかもしれない。  だが決してそういうことはしないのだと、酔いに任せて事に及ぶようなことはしないのだと、療には分かっていた。 (……だって、紫雨は……!) 「……療? あいつらは今、何処にいる?」  紫雨のいつもよりも低い声に、療は無意識の内に身体を強張らせた。  聞かれた内容に、驚きを隠せない。 「──……まさか、もう……?」  療の言葉に紫雨は、面白そうにくつくつと笑った。 「さぁな。どうするのか竜紅人(りゅこうと)にでも選ばせてみるのも一興か。何処へ行ったのかは知らんが、事情も説明できん内に、儀式の間際に帰って来られても困るからな」 「……説明に行くだけ?」 「一応そのつもりだ。春冬(しゅんとう)長雨(ながさめ)は降り始めたが、覚醒の颶風(ぐふう)はまだ吹いていない。だが時間の問題だろう。四神をその身に降ろせば、休ませて馴染ませる時間も必要だ。出来たら覚醒の颶風(ぐふう)が吹き始める前が好ましいな」 「……」    これからのことを淡々と話す紫雨を、療は信じられない思いで見ていた。その思いが顔に出ていたのだろうか。紫雨が苦笑する。 「何だ? その顔は」 「……だって」  真竜は無慈悲だと思う。だがそれ以上に、人というのものが分からないと療は思った。先程まで怒りの感情を見せていた紫雨は、今は憑き物が落ちたかのように、あっさりとした表情をしているのだ。真竜よりも鬼よりも、何より一番恐ろしいのは人なのだと、療は何かの拍子でそう思ったことがある。鬼は生きる為に人を喰い、竜もまた鬼を喰らうが、人はいずれ喰らわせる約束をして、鬼と竜を使役する(すべ)を用いて、自らの欲望を叶えるからだ。  顕にしていた怒りを、綺麗に包み隠された気がした。紫雨の表情からはもう何も読み取ることができない。それが怖いのだと、療は思った。   そんな療に何を思ったのか、紫雨が小さく嘆息して、療の紫水晶のような瞳を覗き込むようにして見る。そして翠色をした柔らかい髪を愛で、頭の上で軽く手を弾ませた。 「──刻余り無く、最良の案があれなのだと上が決めたのなら、なるべく手早く終わらせてやるのが、あいつの為だろう。今まで確かに内にあった、自分を自分たらしめる『術力(もの)』が無くなっていく恐ろしさを、俺はあいつに知って欲しくない」  ああ、と療は心内で呻いた。  もしも自分に、今まで当たり前のようにあったものが消えてしまったら、どうするだろうと思う。  汚泥の苦しみの中で藻掻いて足掻いて。ようやく落ち着いたと思えば、自分が無くしたものを当たり前のように持っている者を見て、絶望と嫉妬に駆られながらも呆然とするのだろうか。  どうすることもできないと、ただ天を仰ぐのだろうか。 「あいつには幸せに笑っていてほしいと思うのに、俺が影を落としに行くのだと思うと……正直遣り切れんがな」  決して表情には顕れない紫雨の、その深翠には僅かな揺らぎがあった。  やるせない、と。  療は思った。  鼻の奥がつん、と痛くなる。 「香彩(かさい)は……ちゃんと話せば絶対分かってくれるよ。それに」  きっとどんなことがあっても、香彩は紫雨のことが好きなのだと思う。それは竜紅人(りゅこうと)や療とはまた違った『好き』なのだろうと思う。 「きっと……その思いは伝わると思うから、だから……!」  矢継ぎ早に支離滅裂なことを言ってる自覚はあった。感情のままに、でもどうしてもただ、伝えたかった。  そんなことで揺らがないだろうと。  譬え真竜の本能の一部ともいえる、激しい嫉妬や執着に晒されても。  香彩と竜紅人と紫雨。  三人が幼い時から築き上げてきた関係は、決して揺らぐことはないのだろうと、信じたかった。  療が言葉を続けようとするところを、遮るのは頭に置かれた骨張った大きな手だ。再び頭の上で軽く手を弾ませるように触れられて、療は言葉を詰まらせる。 「……お前が香彩の友人で良かった。すまないがこれからもあいつの良き友人でいてやってくれ、療」  紫雨の手が頭から離れる。 「あいつは俺に似てひねくれているから、お前のように真っ直ぐに物を言ってくれる者が側にいてくれたら、あいつも心強いだろう。だからこれから起こる出来事に、心を弱らせ揺らいでいたら、どうか話を聞いてやってくれ」  言葉の端々に感じるのは、まさしく深い愛情なのだ。  そう思いながら、療はこくりと頷いた。

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