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第41話 悪戯 其の二

 想像をするだけで、香彩(かさい)の背筋にぞくりとした粟立つものが駆け上がる。それは明らかに欲なのだと分かっていたけれども、香彩は見て見ぬ振りをした。  香彩の手は、顎の下から喉元へと移動する。硬そうなその膨らみが気になって、そっと触れてみた。起こしてしまうだろうか。そう思いながらも香彩は好奇心に負けて、そっと指先で撫でてみる。うん……と、竜紅人(りゅこうと)が眠そうな声を上げたが、まだ目覚めていないようだった。声を上げたからなのか、小さく上下する喉の膨らみに、香彩の心の中にあたたかい気持ちが湧いて出る。 (……そういえば、ここ)  噛まれたんだっけ。  甘噛みだったけれども、くっと竜紅人の牙が強く当たる感触を思い出して、香彩は身を震わせた。  想い人の前に急所をさらけ出して、執拗に責められる悦びを教えてくれたのは、いま無防備に気持ち良さそうに眠る彼だ。  ほんの少し身体を動かして香彩は、竜紅人の喉の膨らみに口付ける。ひくりと動くのが面白くて、軽く口に含んで吸えば、熱を含んだようなくぐもった声がした。  竜紅人の様子を伺えば、未だ眠りの気配がする。もしかしたら半覚醒なのかもしれない。 (……怒られる……かな)  そう思いながらも、こんな風にゆっくりと竜紅人を見て、触る機会がなかった所為か、興味と好奇心の方が先立った。  ぴくりぴくりと喉元の膨らみが動く。  彼の声の元となっているものがここにあるのだ。  竜紅人の低くて柔らかくて、優しい声が好きだった。香彩とあの声で名前を呼ばれるだけで、とても嬉しかった。悪いことをした時に自分を諌めるように呼ぶ声色も、自分が拗ねてしまった時に宥める声色も好きだった。 (……そして何よりも)  彼の『竜の聲』が堪らなく好きだった。  ただ名前を呼ばれるだけの時もあれば、明らかな意思を持って命じられる時もある。それは大概、情事の最中(さなか)だったけれども、その聲だけで身体はとてもとても、熱くなったことを思い出す。  喉の膨らみに触れていた手は、くっきりと出た綺麗な鎖骨の上を通り、逞しい肩へ、そしていま自が片方に頭を預けている胸筋へと降りた。  とくりとくりと。  力強い鼓動を感じて、香彩は嬉しくなる。  滑らかな肌の感触を手の平で楽しんでいると、ふと小指が竜紅人の胸の頂きに引っ掻かった。  少しくぐもった、息を詰めたような声を聞いた気がした。もしかして起こしてしまっただろうかと思ったが、眠りの気配は続いている。  起こしてしまうのは申し訳ないと思いながらも、もしも竜紅人が起きてしまったら、こんな風に見たり触ったりすることが出来なくなるのが残念だと思った。いや、出来ないことは、ないのかもしれない。  だが竜紅人が起きている時に触る勇気が、香彩にはなかった。あの美麗の伽羅色の眼差しで、彼の身体に触れる様子を見られてしまうのだと思うと、どうしても居た堪れない。  想像が出来てしまう。  竜紅人は、香彩が身体を触る(さま)を、決して黙って見守らない。手つきや吐息のひとつひとつを注意深く見て、言葉で責める機会を見計らっている。  お前はそんな風に俺に触れられたいのかと、喉の奥で笑い、艶のある低い声色を耳に吹き込みながら、ねっとりと耳輪を舐める。きっとそれだけでもう、身体に力が入らなくなり、彼の身体に触れるどころではなくなるだろう。  今もこうして竜紅人の熱い舌や息遣い、低い声を思い出すだけで、身体が熱くなっていくような気がした。  彼に何かされたわけではない。  むしろ自分が竜紅人に触れているだけだ。  ただそれだけだというのに、彼の身体を指で辿る度に、彼の指使いや彼から(もたら)された悦びが甦ってくる。  ある程度で止めなければと、香彩は思った。  自分が我慢出来なくなって、再び湯殿に逃げ込む羽目になる。ここの湯殿に鍵は付いていたのだろうか。いやきっとその前に道中で竜紅人に捕まって、連れ込まれるかもしれない。  それにこんな風に触れていることを、彼には知られたくなかった。  何を言われ、されるのか、分かったものじゃない。 (だけど……あともう少しだけ……)   もう少しだけ、触れたい。  じっくりと、ゆっくりと、見ていたい。  だからどうかもうしばらくは、このまま眠っていてほしいと、香彩は思った。

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