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第51話 拠り所 其の二

 だからここにちょうだいと、香彩(かさい)が再度ねだる。  くつくつと面白そうに竜紅人(りゅこうと)が笑った。喉奥で響くその声が、まるで腰にじんと響くようで、香彩は身体を少し捩らせる。 「可愛いことを言うなぁ、お前は。確かに人形(ひとがた)は暫く執れなくなるが、一応竜形でお前の肩に乗って、側にいる予定なんだがなぁ」 「だって明日から……お互いに仕事じゃないか。それに僕、もうすぐ国行事だし、前準備と潔斎に入るから、どっちにしろ暫く会えなくなるし」 「……ああ」   雨神(うじん)の儀だな、と話す竜紅人に返事をしようとして、香彩は思わず言葉を詰まらせた。  それは会話と会話の間に生まれた、ごく自然な刹那の間。 (さっきと同じだ)  竜紅人の伽羅色の瞳に孕んだ、微かに滲ませる『妬み』と『焦り』の色を、香彩は見てしまった。  それはほんの一瞬だった。  すでに、にっ、とした年相応の笑みに覆い隠されてしまったけれど、でも確かに香彩は見たのだ。 (……何でそんな目、してるんだろう)  昨夜までは確かに、欲を孕んだ獣のような目をしていたけれども、こんな目はしていなかったはずだった。  上手く覆い隠されたそれは、譬え問い質したとしても、はぐらかされるに違いなかった。昔から香彩はこういった類いに対して、竜紅人に勝てた試しがないのだ。 (ほんのごく、ごくたまに翻弄させるのに成功するぐらいだもんなぁ……)  そのくせ香彩の隠し事は、すぐに竜紅人に見つかってしまうのは、もうお約束のようなものだ。 「……だから、唇痕見て我慢するって?」 「あ……うん。だって寂しくないでしょう? だから消えないように、きつく吸って……りゅう」  香彩の言葉に竜紅人は、愛しいのと仕様がないのとが混ざったような、大きなため息をついた。 「……ある意味、殺し文句だよな」 「えっ?」 「いや、何にもねぇよ」  そう言いながら竜紅人が、香彩の求めた場所に舌を這わせる。  そして思い切りその薄い皮膚を吸い上げた。 「……っ! もっと、おねがい……」  再度、竜紅人が大きく息をつく。 「確かに蒼竜だと唇痕は付けらんねぇけど、牙痕なら付けられるんだぞ、香彩」 「……んんっ!」  卑猥な音が鳴るほど、肌を吸われて香彩は思わず声を漏らす。  ちくりとした痛みは、やがてじんとした甘い熱に変わる。 「……だって牙痕、すごく痛かったんですけど」 「ああ、あれは悪いことをした。今度はもっと優しく噛む」  「──!」  先程付けられた唇痕に、牙を当てながら軽く甘噛みされて、香彩は思わず言葉を詰まらせた。  蒼竜が香彩の首筋に牙痕を残したのは、この蒼竜屋敷に連れて来られた時だ。  香彩を掴んでいた蒼竜の前肢が、文字通り香彩を投げ捨て、片方の前肢で身体を押さえ付けられた。身動きの取れないまま、激昂の焔の宿った瞳に見つめられながら、破られる衣着。  蒼竜は香彩の細い首筋に噛み付いた。  鋭い痛みを感じたが、それは一瞬だった。  蒼竜がぽっかり開いた牙痕と、流れる鮮血を舐め取ると、傷は見事に消え去ったのだ。  だが蒼竜は執拗だった。幾度も噛まれては傷を治される。一瞬の鋭い痛みとやがて訪れる酩酊感に、身体が熱くなったのを覚えている。 (……それを優しくなんてされたら)  堪らない。  牙痕が残る程度に、優しく噛む蒼竜を思わず想像してしまって、身を震わせる。ぞくり、ぞくりと悦楽が背を駆け上がった気がした。  そんな様子を見ていた竜紅人が、喉の奥で笑いながら、香彩の横で肘を付く。そして隙間を空けるなとばかりに、香彩の身体を引き寄せた。  ばさりと竜紅人が、その辺りに落ちていた上掛けを広げ、香彩と共に頭まで被る。  この屋敷にふたりきりだというのに、更に狭い世界にふたりきりになったような気がして、香彩は嬉しさのあまり小さな感嘆の息をついた。  お互いの間に沈黙が流れる。  さらさら、さらさらと。  狭い上掛けの世界の中で、竜紅人の手櫛で梳く、香彩の髪の流れる音が、やけに大きく聞こえる気がした。  上掛けの中は、外の明るさが映り込んだかのように、白い世界が広がっている。そういえば今は何刻なのだろうと、香彩は心内で思った。朝の爽やかな気配が消えているから、もう昼に近いのだろうか。竜紅人に聞けば教えてくれるだろう。だが香彩は敢えて聞くことをしなかった。  白い世界の静寂を壊したくないと思ったのだ。

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