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第58話 湯船 其の二

   香彩(かさい)は物も言わず、じっと竜紅人(りゅこうと)を見つめた。透き通った美麗の伽羅色の向こうには、今は焔は見えない。その変わり、まるで道に迷ってしまったのに、意地を張って迷っていないのだと自分に言い聞かせているかのような、自分とぶつかる。凛としていた表情の中に、情事の色付いた名残と、どこか不安そうに揺れる瞳を見つけた。 (……自分でも分かってしまうのなら)  きっと竜紅人には、気付かれてしまっているだろう。  竜紅人もまた無言のまま、香彩を見つめている。待っていてくれているのだと香彩が気付くのに、そう刻は掛からなかった。  心が落ち着くのを、待っていてくれている。 (……貴方の心内だって、大変なのに)  成人の儀の『力』の継承方法を、きっと竜紅人は知っているはずだ。  それなのに彼はその心を、顔に映すことはない。上手に包み隠して自分を待っている。  僅かな心の吐露は、理性を飛ばした情事の中でのみ。  小さく息をついて香彩は、堪らなくなった感情を竜紅人にぶつけるように、その薄い唇にそっと触れるだけの接吻(くちづけ)を贈った。  息を呑む竜紅人の気配が伝わってくる。  驚いて固くなった身体は、すぐに弛緩した。  香彩の接吻(くちづけ)に応えるように、竜紅人は舌をそっと絡ませる。  それは綿のような、砂糖菓子のような、らかくて甘い接吻(くちづけ)だった。欲を伴うことのない、慈しみ慰めるような接吻(くちづけ)だった。  なんて新鮮なんだろうと香彩は思う。  舌の絡め方ひとつ、唾液の含ませ方ひとつで、竜紅人は今まで幾度も香彩の身体を、あっという間に昂らせてきたのだ。それが真竜としての本能からくるものだということは、よく分かっている。  だからだろうか。  まるで何かの儀式のような優しい接吻(くちづけ)に癒されて、心が溶かされそうになるのは。  不意に目を開ければ、愛しさと優しさに蕩けたような、弧を描く眼差しとぶつかる。  その伽羅色に、お前の考えていることなど全てお見通しだと、言われたような気がした。だから離れていくなとばかりに、背中から胸の前で交差するように、抱き締められていた腕の力が強くなる。  その狂おしさに喉奥で、くぐもった声を出して反応すれば、僅かに腕の力が緩んだ。  ほんの少しでもいい。  竜紅人から与えられた、この優しい気持ちと癒しを返せたらと、香彩は同じ力加減で竜紅人の舌を絡み返した。  きゅ、と先端を固くして絡めた先を軽く(なぞ)れば、ぴくりと竜紅人の身体が動く。 (……可愛い)   そんなことを思ってしまえば最後、香彩の心内から溢れ出すのは、好きだという感情だった。  好き、可愛い、好き……大好き。  言葉に出来ないものが心から溢れ出て、苦しくて堪らない。  いずれ彼を悲しませて、苦しませることになる出来事が待っているから、離れた方がいいと分かっているのに。 (……あの泥濘(ぬかるみ)に、少しだけでも置いてくれば良かった)  『好き』という感情を。  だがそれを世界は、そしてあの銀狐(ぎんこ)は赦しはしなかった。その変わりに『心の悲鳴』を引き受けてくれたのだ。  それは『好き』という感情をしっかりと持っておけという、世界と銀狐(ぎんこ)の激励のようにも思えた。 (──『好き』は時々、苦しくて辛くて自分自身に牙を剥くけれども)  いつもの自分以上に、奮い立つ力を与えてくれるものだ。    優しげに弧を描く瞳が、(たしな)めるように少し鋭くなったかと思うと、ほんの少しだけ唇に隙間が空いた。  何をと思う暇もなく、舌を甘噛みされて、香彩はふるりと身を震わせる。仕返しとばかりに同じように甘噛みを仕掛ければ、再び竜紅人の身体がぴくりと動いた。 (……ああ、駄目だ)  『可愛い』と『好き』とが溢れてくる。  真綿のような接吻(くちづけ)が唇に落ちれば、その想いは更に増した。 (……好き)  その見目も性格も。意地悪で全てお見通しだと言わんばかりの、伽羅色の目も。悲しみも悔しさも全て胸の内に仕舞い込んで、何もない風を装っているが、本当は情の厚いところも。  何故こんな時にこんなにも『好き』が溢れ出してくるのか、香彩には分からなかった。  だがこの封じることを赦されなかった『好き』があるからこそ、心はようやく決断したのかもしれない。   逃げ出したい気持ちは確かにあった。  このまま見える物、聞こえる物に全て蓋をして、刻が過ぎれば知らない内に、全部終わってしまわないだろうかと思ってしまう。  だが決してそうならないことは、香彩自身が一番良く分かっていた。 (……もう見て見ぬ振りをして、気付いたらすれ違って拗らせてるなんて真似、したくない) (……だからちゃんと聞くんだ)   成人の儀の『力』の継承のことを、竜紅人は知っているのかどうか。 (あの夢床(ゆめどの)で)  桜香が泣いていたことと、何か関係があるのかどうか。  それは確信に近い、疑問だった。  ちゅ、と音を立て唇が離れる。 「……どうした?」    囁く声が甘い。  口付けで敏感になった唇が、竜紅人の吐息に晒されてくすぐったい。  その距離感のまま香彩は、竜紅人にされたことと同様、唇に吹き掛けるようにして話す。 「……(ゆめ)(どの)が……」  続きを話すなとばかりに、唇を軽く舐められて、香彩はびくりと身体を揺らした。  まだ熱を保っていた美麗の伽羅色が、すっ、とその温度を下げたかのように思えて、香彩の胸の中を隙間風のようなものが、ひんやりと吹き込む。  切れ長の眼差しとぶつかれば、まるで視線という名の釘で身体を打ち付けられたかのように、動けなくなった。 「──湯船(ここ)だと逆上(のぼ)せるから上がろう、香彩。……お前の髪を手入れしながら話そうか」  竜紅人のそんな言葉に無言のまま、香彩がこくりと頷く。  とても大事なのだと言わんばかりに、優しく横抱きにされながら湯から上げられて、行き着く先は隣の休憩と脱衣の出来る場所が、ひとつになった休憩処だった。  

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