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第60話 休憩処にて 其の二
(……あ)
竜紅人 の神気と同じ香りが、この下衣 からするのだ。『香り』だと認識していたが多分それは違う。
気配がこの下衣に染み付いている、といった方がいいだろうか。
確かに竜紅人と同じ匂いだが、こちらの方がやや柔い。
(……この匂い……)
間違いないと思った。
忘れるはずのないこの香り。
抱き締められて、より濃厚に香ったそれは、記憶に新しい。
(桜 ……香 ……?)
どうして彼女の匂いのする衣着が、ここにあるのだろう。
そう思っている内に、頭部分だけ大きく開いた、白い上衣 が香彩 の前ではためいた。
頭を通れば、前身と後身の衣布 が宙を舞いながら、やがて自身の身体へふわりと降りてくる。
それを確かめてから竜紅人 が、再び香彩 から離れ、今度は袴を持って現れた。
濃紅の色をしたそれは、今まで着たことのない色だ。
(……桜香もこれを着てたんだろうか)
心内でそんなことを思っていると、濃紅の袴を持った竜紅人が、前で膝立ちになったのを見て、香彩は驚きの声を上げた。
「りゅ……! 自分で着るから……」
「そんな寂しいこと言うなよ、香彩」
見上げられながら、くすりと笑われて、どきりと香彩の胸が鳴る。
「俺が破いたんだ。世話させろよ。それに……懐かしいだろう?」
竜紅人の言葉に香彩は無言で、こくりと頷く。
幼い頃は、こうやってよく着せて貰ったのだ。最もじっとしているような子供ではなかった為、竜紅人に怒られて逃げ出さないように、竜の尻尾でぐるぐる巻きにされたこともあったが。
「お着替え嫌で、よく逃げてたな……僕」
「ああ、そうだな。中途半端な長さで逃げて、衣着に足引っ掻けてこけて泣いて、までがお決まりだったな」
「……よく覚えてませーん」
そうか? とくつくつと笑いながら竜紅人は手慣れた様子で、袴を着付けていく。
帯で結び、上衣 の前身と後身の衣布 の長さを合わせて、僅かに前に出せば、袴は終わりだ。
左袖の端を持って、肩の高さへと真っ直ぐに持ち上げる竜紅人と再び視線が合う。
香彩は袖に手を通しながら、まるで覚悟を決めたかのように、そして自分を落ち着けるように、大きく息をついた。
これが話の根源に近付く、きっかけとなるとことをねがって。
「……この衣着って……桜香……の?」
ぴくりと僅かに、竜紅人の身体が動いたことが、袖を通じて伝わってきた。
竜紅人は左袖を整えたあと、同じように今度は右袖を真っ直ぐに持つ。
「あいつの匂いでも……染み付いていたか?」
「竜紅人と全く同じ匂いがしたよ。桜香の方がほんの少しだけ柔らかいから、すぐに分かった」
右袖に手を通しながら言う香彩に、竜紅人は再び無言だった。だが右袖を整えながら、何か心内にあるものを吐き出すかのような、大きなため息をついた。
「……療 が持たせたらしい。あの時のあの状況。俺が蒼竜のままお前を掴んで飛んで行った先で、丁寧に衣着 を脱がせてるはずがない、だとよ」
ばつの悪そうな顔をして彼が言う。
済まない、という僅かに掠れた声が聞こえて、香彩は驚いて竜紅人の方を見た。
右袖を整え終えた竜紅人の視線が、まっすぐに香彩を捉える。
「……今更だとお前は思うかもしれないが、あの時は済まなかった」
恐かっただろうと、竜紅人が言う。
あの時の蒼竜を『恐い』と思ったことなどなかった。ただ驚いただけだ。それに今は思い出すだけで、身体はどうしても熱くなる。
こればかりは竜紅人に知られるわけにはいかないと香彩は思った。衣着を蒼竜に破られたことを思い出して、身体が熱を持ち始めるなど、相当の重症だ。
竜紅人の言葉に香彩は、再び熱を発散させるように小さく息をついてから、頭 を振った。
「……恐いって思ったことないよ。それに竜紅人あの時、ちゃんと謝ってくれたから……だから」
蒼竜によって『御手付 き』の香りに包まれた時、確かに今と同じ声色で、香彩は聞いたのだ。
竜紅人の、『済まない』を。
「もう、謝らないで。りゅう……」
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