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第61話 休憩処にて 其の三

 そう言いながら香彩(かさい)竜紅人(りゅこうと)の方へ、身体ごと向き直る。  ふわりと舞う袖の感触が、とても懐かしい物のように思えた。   同時に香るのは桜香(おうか)の、竜紅人の気配。  衣着の袖を手できゅっと握りながら顔まで上げて、仔狗(こいぬ)のように、くん、と嗅げば、森の木々の香りが身体の中に沁み渡るようだった。 「……この衣着」  何だか抱きしめられてるみたい。    そう言うや否や、気付けば眼前に竜紅人の胸があった。 「……本人が目の前にいるのに、そういうこと言うか? 香彩」  背中に力強い腕を感じて、抱き竦められたのだと自覚する。 「うん……そうだよね。ごめん……りゅう」  着付けてくれてありがとう、とその胸に頬を寄せて香彩が言う。するとより強く抱きしめられて、頭上から大きなため息が降ってきた。 「はぁ……()りてぇ……」   香彩の藤色の髪に顔を(うず)めてそう言う竜紅人に、どきりとしながらも香彩はくすくすと笑った。 「せっかく綺麗に着付けてくれたんだから、また今度、りゅう。髪、手入れしてくれるんでしょう?」 「……ああ」  竜紅人の手付きに促されて、香彩は姿見の前にある丸椅子に座った。  再び竜紅人が香彩から離れる。  何をしてるんだろうと姿見越しに竜紅人を見ると、衣着の入っていた袋を何やら漁っている姿が映った。  あった、と言わんばかりに取り出したのは、櫛と香油の入った器だ。  それとあともうひとつ何かを見付けた竜紅人が、おお、と声を上げている。  姿見越しに彼と視線が合えば、彼は最後に手に取った物を、何故か得意げに見せてきたのだ。 「こんなものまで入ってるとは……お前の支度のことを分かってるって感じで、俺としては何とも複雑な心境だけど」  正直助かる、と素直に言った竜紅人に、香彩は(いら)えを返す。 「……そうだよね。ここまでは普通、気付かないもんね」  それは油綿(あぶらわた)という、香油を髪に塗り付ける為の道具だった。細い棒状の先端に布を被せた綿が括り付けてあり、ここに香油を浸して使用する。  髪に塗る際に香油の量を調節出来て、尚且つ均等に塗る事が出来るので、髪が纏めやすくなるのだ。香彩の様に髪が長く、高く結う者にとっては必需品だ。  無くても結うことが出来るが、やはり仕上がり方が全く違う。  そういう細かい所に気が付く(りょう)に、香彩は改めて流石だなと思った。  衣着の選び方でもそうだった。  装飾がなく、香彩が抵抗のない色彩を選んでくれている。  それに加えて櫛に香油、油綿まで持たせたのだから、流石としか言い様がない。 (……ん?)  はた、と香彩は気付く。 (──持た……せた……?)  心の中に、ひやりとしたものが落ちた。波紋が全身に広がっていくような気がして、香彩は身を震わせた。 「悪い。少し冷たかったな」  油綿に香油を染み込ませ、ぽんぽんと軽く叩くようにして、髪に塗り始めた竜紅人が言う。  だが香彩の心内は、それどころではなかった。 (……そういえばさっき竜紅人も言ってた)   (りょう)()()()()のだと。    ──誰に? 「……ねぇ、竜紅人」 「ん?」   竜紅人が、少し上の空のような感じの返事をした。何度か油綿(あぶらわた)に香油を付けていることから、その調整に気を取られているのだろう。  普通に聞けばいいことだ。  この衣着や香油、油綿は、療に頼まれて誰が持ってきてくれたのか、と。    竜紅人ではないのは、明らかだった。  彼がその蒼竜屋敷を離れたのなら、気配ですぐに分かるはずだ。だが彼の気配はずっと屋敷内にあったし、離れた形跡も見当たらなかった。  療が紅麗の奥座敷を再び訪れていたのは、この衣着(ころもぎ)を見ても想像出来る。蒼竜に拐われたあと、桜香(おうか)が自分の『中』へ還るのも時間の問題だと、思ったに違いない。  じゃあ誰が、と香彩の頭の中は、答えを敢えて触れたくないが為の、堂々巡りを繰り返していた。  答えなんて、当に出ている。  気配の残香を辿れば、すぐに誰だか分かるというのに、探ろうという意識は、無意識の内に自身が遮断するのだ。 (……それにこの蒼竜屋敷には)   外部からこの蒼竜の館を隠す為の結界が張られている。ここに入れるのは、蒼竜と蒼竜に近しい者、そしてこの結界を張り続けている者のみ。  だから初めから、たったひとりしかいないのだ。  香油を塗り終えた竜紅人が、櫛を使って香彩の春の宵闇に咲く、藤瑠璃色の春花の様な髪を、丁寧に梳き始めた。  腰で切り揃えられた髪は、引っ掛かることなく、すっと櫛を通る。普段から手入れをしてくれる、竜紅人のおかげだった。  髪の一房を掬う彼の手付きは、とても優しい。まるでその手の先から、気持ちが溢れ出ているのかと思うほどだった。 「……どした?」  竜紅人の名前を呼んだきり、黙ってしまった香彩を心配したのだろうか。気遣うような優しい口調で彼が聞く。  香彩はその声と髪を触る手付きに勇気を貰うようにして、大きく息をついた。 「……その袋、持ってきてくれたの……」  紫雨(むらさめ)……?    髪を(くしけず)る竜紅人の手が止まった。  

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