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第63話 異変 其の一
それでも無粋だと気遣いを見せるのが、あの人だと香彩 は思っている。
だから他に何か用事があったのかもしれない。衣着はきっとついでだ。
(竜紅人 にだけ……会ってるし)
(──顔が見たいって言われても、すごく嫌だっただろうけど)
自分が気を失っている間に、ふたりが交わしたものは一体何だったのか。
何を話していたのか。
「……俺の愛しい子供を、あまり啼かせてくれるな、と」
先程よりも低く掠れた竜紅人の声が、耳元に吹き込まれる。
ぶわりと。
心内の昂りに反応して、より香る『竜紅人の御手付き という名の鎖 』に動揺しつつも、香彩 は心を落ち着ける為に、深く息をついた。
一体どんな話をしていたら、そんな言葉が出るのか、香彩には想像が付かない。ふたりがどんな会話をしていたのかとても気になる。だがこの手の話はなんとなくではあるが、聞いてはいけない気がした。
そんなことを考えていると、耳元に荒い吐息をぶつけられて、香彩の身体がびくりと反応する。
「……さっきよりも香りが強いな……かさい」
あまりおっさんのこと、考えてくれるな。
吐息混じりに耳元で竜紅人が、低く掠れた声でそう囁いたと思いきや、耳輪 を大きく口に含んだ。
「──っ、ん……」
口腔に納めたまま軽く吸われる。やがて宛がわれたままだった舌が、初めはおずおずと、次第に舐めしゃぶるように使われて、香彩の口から艶を含んだ声が洩れた。
一頻り、香彩の耳を堪能し尽くした竜紅人が、はぁ……、と荒々しい熱い息を再び香彩の耳にぶつける。
「このまま……姿見の前で椅子に座りながらというのも、一興だな。お前のあられもない姿や、俺と繋がっている姿、いやいやと啼く姿、全て姿見が教えてくれる」
竜紅人はそう言うと、喉奥でくつくつと笑った。
「おっさんのことを考えて出したこの香り、今すぐここで書き換えるか……? かさい」
姿見越しに竜紅人の伽羅色と視線が合った途端、ぞくりとしたものが背筋を駆け上がる。
思わず頭に浮かぶのは、一糸纏わぬ姿にされた自分が、衣着の乱れなど一切ない竜紅人に姿見の前で立たされ、責め立てられる姿。
竜紅人のことだ。
よく見えるようにと、初めから全て背後から手を伸ばし、香彩の身体を奏でるに違いない。
あの長くて形の良い指が、身体のそこかしこに触れる様子を、姿見を通して教えられるのだ。今まで彼が、どんな風に自分に触れていたのか。
ずくりと尾骶が、鈍く痛んだ気がした。
だがこの鈍い痛みこそ、香彩がいまの状況を少し冷静に見ることが出来るきっかけとなった。
ようやく嫉妬を前面に出してきた竜紅人だったが、口よりも先に手を出し、ある程度胎内 を責め立ててから理由を話す、昨夜のような様子とは明らかに違っていた。
まるで香彩の意思を確認するために待っているような、そんな様子だった。
どうしてだろう、と香彩が思った時、その答えは唐突に頭の中に降ってくる。
(……ああそうか、僕が)
夢床 の話がしたいって言ったから。
もしもそうではなかったら、竜紅人は昨夜と同じように有無を言わさず、聲で縛り付けて香りを変えさせていたはずだ。
香彩は、耳元へ唇を寄せている竜紅人の方へ、顔を向ける。
間近に見える彼の端正な横顔が、香彩の方を向いたのを見計らって、彼の薄い唇に触れるだけの接吻 を落とした。
夢床のことを思い出すと、竜紅人に対する『好き』という感情が溢れるが、同時に先程まで持っていた熱が、すっ、と冷めていくのが分かる。
(……多分きっとこれは……)
あの夢床の答えが見つかるまで、続くのかもしれなかった。
「……りゅ……ごめん」
そう囁きながら、香彩は再度、竜紅人の唇にそっと、接吻 を落とす。
「また今度、ね。今度……貴方が望むように……衣着を纏ったまま、姿見の前で……して。文句は言わないから……だから」
──……いまは、夢床 のお話、聞いてくれる? りゅう。
くすりと竜紅人の笑う声がした。
今はこれで我慢すると、幾度か色付いた唇に接吻 を落とされて、お互いの吐息が混じる。
「……ったく、すっげぇお前に躾られてる気分」
「え?」
「なんでもねぇよ」
名残惜しいとばかりに耳朶 にまで接吻 を落として、竜紅人が再び香彩の髪を梳き始める。
「……夢床 で何があった?」
硬い口調で竜紅人が言う。
彼もまた香彩の『夢床 』で見る物の重要性を、よく知っている人物のひとりだ。
夢床 は意識の奥に存在する、潜在意識の眠る場所。今まで考えないようにしていた、もしくはすっかり記憶の奥に封じ込めてしまった、漠然とした不安が顕になる場所。
そして過去や現在の心の傷はもちろん、未来の傷もまた眠る場所とされている。
香彩は自分を奮い立たすように、大きく息をついた。
「……夢床 で桜香 に呼ばれたんだ」
竜紅人の梳 る手が、止まる。
「桜香……泣きながら僕に謝るんだ。慰めたくて近くに行こうとしても、透明の大きな壁のようなものがあって行けなくて。……自分の中に自分が入れない領域がある。その中に桜香がいるって、何かすごく意味のあることを、あの世界は……そして桜香は訴えている気がして……」
ねぇ竜紅人、と香彩が聞く。
止まってしまった手。
応 えがないまま、香彩は再び話し出す。
「……桜香、ちゃんと療 の『中』に還ったんだよね。真竜の魂を浄化する場所に。なのにどうして僕の夢床 で、泣いていたんだろう」
かつん、と何かの落ちる音が聞こえた。
音のした方を向けば、竜紅人が持っていたはずの櫛が落ちている。
「……りゅう?」
どうしたのだろうと、香彩が竜紅人の方へ向き直ろうとした刹那。
「──っ!」
背中から力強く抱き竦められて、香彩は息を詰まらせた。
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