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第64話 異変 其の二

 どうしたのと聞きたかった言葉は、彼の掠れた悲しい声色によって、掻き消される。  済まない、と彼は言った。  背中にこつんと当たるのは、竜紅人(りゅこうと)の額だ。まるで懺悔でもするかのように、彼は、済まないを繰り返す。 「──全て俺の所為だ、香彩(かさい)桜香(おうか)が泣いていたもの、お前の領域に入れない場所があるのも、全て俺の所為だ。……かさい……っ!」  腕の力が更に増して苦しさを感じるが、それ以上に竜紅人の声色と話す内容の方が苦しかった。  香彩は背中から自分を抱き締める逞しい腕を、抱き締め返すようにして、きゅっと握る。  どうしてそれが貴方の所為になるのと、聞きたかった。だが自分はこれからこの人に、もっと残酷なことを聞くことになるのだ。  夢床(ゆめどの)のあの白い世界であったことを今一度、思い返す。  ──今年行われる『成人の儀』の力の継承、あれは……  ──詳細は知らぬが、密儀だそうな。    思い出せとばかりに、あの白い世界が『心の嵐』を治めた先にあった噂話。  ()せたのが夢床でなければ、まさかと思いつつも、信じなかったかもしれない。  泣いている桜香。  入ることのできない領域。  それらが全て何らかの形で、繋がっているのだとしたら。 (……その原因を作ったのが、竜紅人……?)  彼の腕に触れていた手を、香彩は手の甲に重ねるように置き、きゅっと握り締めた。大きい彼の手を、自分の手で包み込むことは出来なかったけれども、この掌の体温が竜紅人に伝わればいいと、香彩は思った。  好きで堪らないのだという気持ちが、伝わればいいと思った。  夢床(ゆめどの)銀狐(ぎんこ)が『好き』という感情を捨てることを赦さなかった訳が、今になってようやく分かる。  好きだからこそ、相手に嫌われたくない、知りたくない、知られたくないという気持ちも確かにあった。  だが想う気持ちがあり、想われていると思うからこそ、竜紅人のことを信じようと香彩は思うのだ。   あれほどの執着心と独占欲を見せ、竜の聲で縛り付けた香彩を、彼は決して手放したりはしないのだと。  譬え何があっても、彼の心は側にあるのだと。  聞かなくてはいけないことがあるのだ。  譬えそれが、どんなに残酷なことだと分かっていても。 「……ねぇ、りゅう。その桜香が泣いてることとさ……」  ──成人の儀って、何か関係……ある?  疑問の問いかけのようだが、香彩は確信を持って竜紅人にそう聞いた。  あからさまな変化を香彩は、その背中で感じ取る。  今まで動揺らしい動揺を見せなかった竜紅人が、びくりと身体を震わせたのだ。  背中から回される彼の腕の力が、更に増す。その苦しさに耐えるように、彼の手の甲をぎゅっと掴み、息を詰める。  竜紅人の(いら)えを待つことなく、香彩は再び大きく息をついて話し始めた。 「……夢床(ゆめどの)の、白い世界が思い出させてくれたんだ。竜紅人の紅麗通いの噂で心の中がいっぱいになる前、陰陽屏である話を聞いたこと。……大司徒(だいしと)の麾下が、きっと誰もいないと思って話したんだろうね」  背中から力強く抱き締め、額を香彩の背に付けた竜紅人の姿は、話してくれるなとばかりに縋るようでもあり、赦しを請うようにも見える。  息苦しさと僅かな痛み。  まるで骨の軋む音が聞こえてきそうな程の力加減は、きっと無意識だ。  竜紅人の心は、もっと苦しいはずだろうと香彩は思う。  だから話し終えるまで、香彩は身動(みじろ)ぎをしないことに決めた。ほんの僅かでも身体を動かせば、竜紅人が腕の力を弱めてくれることは分かっていた。だが敢えて香彩は苦しいのだと、彼に訴えることを止めることにしたのだ。  出来ることならその苦しさを共有したいと思った。  傲慢かもしれない。  所詮、人と真竜だ。  尊い真竜が故の苦しみを、人が理解しようなどというのは、烏滸(おこ)がましくも愚かなのかもしれない。  それでも、ほんの一瞬だけだったけれども、背中で感じた竜紅人の震えの意味を知りたいと思った。知った上で分け与えて欲しいとも思った。それこそ傲慢だと、心のどこかで香彩は嗤う。 「……彼らがね言ってたんだ」  それに彼の苦しさに刃を突き立てるようなことを今から話す、自分の存り方こそが、傲然たる存り方だろうと思う。 「──成人の儀の『力』の継承は交合によるものであり、密儀だ、って」  香彩がそう話した刹那。 「──……っぁ……!!」  抱き締められる腕の力のあまりの強さに、香彩は空気を求めて喘いだ。  苦しい。  痛い。  今まで加減されていたのだと、よく分かる。  渡すものかと言わんばかりの締め付けに、骨が軋む。  痛みに耐えようとした香彩だったが、力加減の忘れた息苦しさには耐え切れず、ぎゅっと握っていた竜紅人の手の甲を、何度か叩いた。 「──っ!」  ようやく気付いた竜紅人が、腕の力を緩める。苦しさから解放された香彩は、痛みと苦しさで詰めていた息を荒く吐き出した。  ああやはり、と香彩は、呼吸を整えながら思う。  あの噂は本当だったのだ、と。  そして彼は知っていたのだ、と。  何故なら香彩を赤子の頃から見守り、育ててきた竜紅人が、力加減を忘れるほど動揺していたのだから。  

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