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第65話 異変 其の三

 心の準備があったからか、それとも動揺する竜紅人(りゅこうと)を見てしまったからか。あの噂が事実であると分かっても香彩(かさい)の心は、何か大事なものを何処かへ置き去りにしてきたかのように、()いでいた。  何か感じてもいいはずの心は、不透明な膜のようなものに覆われていて、何も感じることが出来ない。  ただ竜紅人を信じたかった。  昨夜から今朝にかけて幾度も幾度も身体を繋げたのは、想いが通じた喜びと同時に、いつかの未来に明け渡すことを知っていたが故の嫉妬もあったのだろう。  どんなに奥を暴かれても、自分の匂いしかしないようにと。これは自分のものだと、明け渡す者に分からせるために。  その執着心と独占欲を、香彩は信じたかった。  どうか離れて行かないでほしい。  その心をどうか自分に向けていてほしい。  だが全てが終わった後、他の者の匂いが残る自分に、竜紅人の心が離れないという保証は何処にもない。 (……受け入れられないと)  思われるかもしれない。  今が恋情と嫉妬で、どんなに目合っていたとしても、いざ他の男の香りを身体を最奥からさせている片割れを見た途端、その熱はすっと醒めるかもしれなかった。 (……それに僕自身の気持ちが……)   どうなってしまうのか、分からない。  夢床(ゆめどの)銀狐(ぎんこ)に護られた『好き』という感情を心に(いだ)いたまま、ただただ彼に申し訳なくて『離れる』という選択肢を取るかもしれない。  人は表情に現れる感情とは、全く真逆の感情を内に秘めることが出来る生き物だ。  何でもないといった顔をして、其の実、引き裂かれそうな心の痛みと慟哭感じている。  感じていた、と言った方がいいだろうか。  心の奥深くにある、思考の底無し沼に全て自分は、置いてきてしまったのだから。  だから平気だ。  香彩はそんなことを思いながら、握っていた竜紅人の手の甲から一度手を離して、今度は彼の指と指の隙間に、そっと自分の指を差し入れる。  自分には愛でられた記憶がある。触れられてない場所などないと言い切れる程に、愛された記憶が。  それに身体に残っている、いくつかの唇痕。いつか消えてしまうと分かっていても、付けられた時のあの甘やかな痛みを、決して忘れはしないだろう。  だから平気だ。  お互いの心の移り様を感じたとしても、あの時の記憶を胸に抱くことが出来る限り、向き合うことが出来る。悲しいのは初めだけだ。その悲しみもまた、時が経てば癒されて、やがて生きる糧になるだろう。     「……りゅう……?」   香彩の呼び掛けに竜紅人の身体がびくりと震える。  香彩は待った。  彼の心が落ち着いて、やがて話し出してくれるのを。  やがて荒々しい息が、結い上げられて顕になった項に吹き付けられて、今度は香彩の身体がびくりと動いた。 「……ぁ」  背中から回された腕を、香彩の胸の前で交差するように抱き直され、きゅっと心地良い力加減で抱き締められて、香彩は無意識の内に喜悦の声を漏らした。  しばらくの間、竜紅人は動くことはなかった。再び額を香彩の背中に付けて、まるで香彩の存在を、その体温を確かめるようだった。  一頻り、そうやって額を背中に触れさせたあと、竜紅人の顔を上げる気配がする。  彼は低く掠れた声色で言ったのだ。  ──ああ、その通りだ、と。 「……桜香(おうか)が泣いたのは、自分の所為で成人の儀が早まってしまったことを、悔やんでいるからだ」 「早……まる……?」   中枢楼閣を護る四つの門に宿る四神は、いずれ自分が引き継ぐのだと言われ続けていたこともあり、成人の儀で力の継承があることは、随分前から知っていた香彩だ。  だがそれがいつ行われるのか、香彩は知らなかった。自分が十八になってからだとしか、知らなかったのだ。  ましてやそれがどの様な方法で引き継がれるのか知ったのは、つい先程だ。  力の継承が早まったことと桜香に一体どんな関係があるのか、香彩は全く検討が付かないでいた。 「……『力』の継承方法を知らされるのは、本来なら儀式の吉日が決まってからだ。吉日までは:四ヶ月(よつき…から五ヶ月(いつつき)程ほど間が置かれる。その(かん)に継承者は、長い心の(こしら)えを経て(のち)、儀式を受けるとされている」 「……長い心の……」  香彩は夢床(ゆめどの)での、桜香の言葉を思い出す。  ──本来でしたら長い心の(こしら)えを経ての──……でしたのに、私が……──。  あの言葉はこのことを意味していたのだ。  本来ならあるはずの心の準備期間を、自分が早めてしまったと、桜香は泣いたのだ。 「……どうして桜香が……」  関係あるのか。  泣かなければならなかったのか。  そう問おうとした声は、竜紅人のあまりにも苦し気な声によって出せなくなる。 「──全て俺の所為だ。全て……俺の嫉妬が……俺の心が招いたことだ……」  済まない、と彼は引き攣れるような声を上げた。 「俺が、お前の胎内(なか)に……──!」

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