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第66話 神桜
それは何の前触れもなく、突如起きた。
ごうごうと。
唸るような音が聞こえた刹那。
ざんっ、と。
何かを根刮ぎ奪っていくかのような、風の音がした。
それは葉擦れか、それとも花擦れか。
竜紅人 の腕の力が緩んだのを見計らって香彩 は、彼の腕の中から飛び出した。
紫雨 の結界に護られているこの蒼竜屋敷に、有り得ない気配を感じて、香彩は湯殿の休憩処から出る為の引き戸を開ける。
「──……っ!」
噎せ返るほどの濃い土の匂いが鼻を突いた。紛れるように仄かに臭う死臭に、香彩は衣着の袖で口と鼻を覆う。
目の前に広がる光景に、信じられない思いがした。
頭 を振り、思わず半歩下がった背中が何かに当たる。
それが竜紅人の身体であると分かった時、やたら酷い安堵の気持ちが心の底から湧き出してきて、香彩はとん、と彼に背中を預けた。
伝わってくるのは、警戒の念だろうか。
それもそうだろうと香彩は、意識を再び前へと向ける。
中庭で綺麗に咲いていた神桜が、見るも無惨な姿に変わっていた。
先程の風は神桜の花片だけを、全て奪って行ったのか。風によって折られた無数の枝だけが、下に散らばっていた。
「──速いな。もうこ こ に は い な い 」
背後に竜紅人の声を聞きながら、香彩は無言のまま、中庭へと降りる。
雨が降っていたのだろうか。
散策用の石畳は、しっとりと濡れていた。
足が汚れてしまうのも構わず、香彩は裸足のまま歩みを進め、無数の枝の散らばる前で止まり、その一枝を手に取る。
聞こえたのは女性の悲鳴だった。
それはこの枝が持つ思念のようなものだった。枝は何かを伝えようとしていたのだろう。だがその力は弱く、香彩の物視 の力を持ってしても、読み取ることは出来なかった。
一体何が起こったのか。
こんな酷いことをしたのは、一体何者なのか。
内なる思考に気を取られ、香彩は気付けなかった。
さらさら、さらさらと。
音を立てて少しずつ消え行く、自分にとって唯一の神桜の花片を。
「──……!? だめっ……!」
だめ。
持って行かないで。
この花片だけは。
彼 がくれた、この花片だけは。
(……あの時)
嫉心のあまり灼いてしまった罰が当たったのだと、香彩は思った。
さらさら、さらさらと。
手首に括り付けられた綾紐に、あしらわれた神桜が、まるで何かに呼び寄せられるかのように、宙に光の軌跡を描いて消えて行く。
香彩はそれを、ただ見つめていることしか出来なかった。
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