67 / 409

第67話 花影閑話 ─嫉心遊戯─

   遠くから見ているだけでよかった。  触れずとも、そばにいて話が出来るだけで至福であった。    愛しき人よ。    君が。  ただひとりの為に、笑顔を向けたりしなければ……。  彼が想う想い人はその昔、天上から贈られてきた火神(ひのかみ)の宿る神桜(しんおう)だった。  彼女は時折、人の形を取り、桜の樹の下に舞い降りる。  ふわりとした花片と同じ藤色の髪が、甘い芳香を放って風に靡かれる。大きくていつも濡れているかのような新緑の瞳は、目的の人を見つけると、新しい玩具を貰った子供のように、きらきらと輝いていた。  彼女の目に映るのは、まだ成獣に達していない、妖狐だった。  背丈もまだ低い。  肩で揃われている灰銀色の髪。そして同じ毛並みの耳と尾がひょっこりと出ている。人型もろくに取れない未熟な銀狐(ぎんこ)だ。  銀狐と彼女は楽しそうに話をしている。銀狐の会話に笑顔で応え、銀狐もまた笑顔であった。  土神(つちかみ)はそんな様子を、遠くから眺めていることしか出来なかった。    間に割って話をしに行くなど、土神にとってそれこそあり得ない話だった。それではまるで、銀狐のことを気にしていると言っているようなものではないか。相手は、たかが魔妖(まよう)なのだ。土神とあろう者が、気になどかけてはいけない小者なのだ。  それでも嫌でも聞こえてくる話の内容を、どうしても聞いてしまう。  一族の長候補であり、いずれは大きな群れを率いる存在になること、集落にはたくさんの綺麗なものがあることなど、銀狐はそれらをとても明快に楽しそうに話をするのだ。 「綺麗なもの?」 「うん、たくさんあるんだ。中でも一番の自慢が、星の欠片さ」 「星? 星ってあの空にある?」 「うん、そう。昔たくさん落ちてきたんだって。透明な碧色をしていて、とてもとても綺麗なんだ」 「あなたがそう言うなら、とっても綺麗なものなんでしょうね」 「今度来る時、持ってきてあげるよ。特別に見せてあげる」  銀狐のその言葉に、彼女はとても喜んでいた。  彼女の喜んだ様子を見て、銀狐は下げていた布袋の中から一輪の花を取り出した。その辺りの山に生えていそうな、何気ない白い花だった。  銀狐は両手でそれを彼女に差し出す。  彼女は嬉しそうに、それを受け取るのだ。 「それじゃあ、今度来る時には、星の欠片を持ってくるね」  銀狐はそう言うと、帰って行った。  きっとたくさんの群れの仲間が、彼の帰りを待っているのだ。  何せ、銀狐は長候補なのだから。  ああ。  君を見ているだけでよかった。  遠くからでも分かるその美しさ。  月明かりの下で咲き誇る、君のその笑顔を。  どうして。  どうして魔妖なんぞに向けたのか。    銀狐が確実に帰ったことを確認して、土神は彼女のそばに顕現する。  途端に、彼女の表情が曇ったことに、土神は気付かない振りをした。  彼女は面と向かって、土神に対して嫌悪感を示すことは無い。だが銀狐と話していた時の、春の日差しのような笑顔を、土神は今まで自分に向けられたことがなかった。 「火神よ。付き合う相手は選ばれた方が良いのではないのか?  あのような魔妖と話をするなど、我ら一族が気安いと小者や地の者に舐められてしまう」  土神は銀狐の去った方向を見やって言う。 「魔妖と仲が良いなどと、我らを祀る人が見ればどう思うだろう。近頃祭祀が少なく、我々の供物も少ないのは、あやつが原因ではないのか?」 「……ごめんなさい、土神。でも、決して、決して悪い人ではないの」 「そういうことを言っているのではない」 「……ごめんなさい」  ふさぎ込んだ表情をして、彼女は俯く。  土神は小さくため息をついた。  それを呆れの吐息だと感じ取ったのか、彼女は今一度ごめんなさいと呟き、神桜の大樹の中へと姿を消したのだ。 (……一体自分は何をしているのだろう)  土神は、今度は大きくため息をついた。  どうしてこうも自分は、彼女の笑顔を見ることができないのだろう。  どうして魔妖ごときに出来て、自分はできないのか。 (違う。何故我が魔妖の狐なんぞに、気をかけねばならんのだ)  実に気に食わない。  妖狐が。  いや何よりも。  そんなことに気を取られている、自分自身が一番気に食わないのだ。  

ともだちにシェアしよう!