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第70話 花影閑話 ─欣羨遊戯─ 其の二

 土神(つちかみ)はいてもたってもいられず、踵を返し、走り出した。  走りながら、胸を掻いて掻いて掻きむしりたいくらいに、悶えた。  なんたること、なんたること、なんたること。  小物だとばかり思っていた魔妖(まよう)は、皇族を見たことがあるのだという。いずれ長になれば契約すら出来るのだという。それはまさに力のある証だ。  土神は自分は神だ、相手はたかが妖狐だと言い聞かせてきた。だがそれも自分の心にはもう通用しない。  気がつけば土神は、自分の住み処である神社の近くまで戻ってきていた。  だがどうしても神社に帰る気になれなかった。  土神は、走って走って走り抜いた。この走りにも似た心の中の、荒れ狂う何かをどうにか止めてしまいたかった。 『じゃあこうしましょう。星の欠片を見せていただいたら、私はあなたにこの一枝を差し上げます』  頭の中で神桜(しんおう)の声が響く。  何度も、何度も、まるで神桜のその言葉に追いかけられるかのように。  どうすればいい、どうすれば自分は妖狐を越えられる?神桜は自分を見てくれる? (一枝は、彼女の親愛の証)  土神は考えた。  そして思いついたのだ。  だが土神は気づいていなかった。  それを思い立った時点で、自身の神々しいばかりの神気が、序々にどす黒い堕ちたものへと変わっていくことに。  土神は神桜の木から一枝を奪い、妖狐よりも先に手に入れて見せようと思った。  一枝は彼女の一部、その枝さえあれば神桜の火神(ひのかみ)はどこにでも姿を現すことができた。事実上、あなたとともにいますという証だったのだ。 (妖狐はどんな表情を見せてくれるだろうか?)  苦しみ、悩み、妬む表情を見せてくれるだろうか。  だが神社の桜の木は、彼女の本体なので折るのは憚れる。 「ならば、本体でなければよいのだ」  土神の体は、ふわりと宙を舞い駆けだした。  土神がもう少し銀狐(ぎんこ)の話を聞いていたら、冷静に銀狐の様子を見ることが出来ていたのなら、その『笑顔』という表情の中に、隠されたものを見つけることが出来ただろう。  だが心に巣くった黒い染みは、徐々に広がりやがては周りを感染していく。  かつては美しかった苔色の長い髪も。  鳶色の眼も。  謳われた端正な容姿も。  神々しい神気も。  今は見る影もなかった……。

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