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第71話 発動
既に陽は落ちていた。
山の稜線に吸い込まれるようにして消えて行った陽を横目に、竜紅人 が香彩 を抱き抱 えて滑空する。
眼下に見える紅麗の灯が、夜の帳の落ち始めた地上に浮かんで見え、まるであたたかな色をした星のように思えた。
綾紐にあしらわれていた神桜が消えた。
蒼竜屋敷の中庭で茫然としながらも、静かな涙を流した香彩は、竜紅人に口付けられ、現実 へ戻れとばかりに唾液を飲まされて、我に返った。
そして竜紅人に帰ろうと促されたのだ。
蒼竜屋敷 にいては何も分からないから、と。
元々、身支度を整えたら帰路に就く予定をしていた。明日からはお互いに通常業務だ。途中紅麗の屋台などに寄って、軽く夕餉 を取ったりなどして、遅くても今日中には帰るつもりをしていたのだ。
あっという間に紅麗の上空を通り過ぎる。香彩もそして竜紅人もまた、寄り道をする心の余裕がなかった。
蒼竜屋敷の中庭一面に咲き誇っていた神桜の全てが、無惨にも折られ、太い幹だけを晒した姿となった。
それは只事ではなかった。
香彩も竜紅人もそれを上司に報告する義務がある。
神桜はただの桜の木ではない。
木を通じて火神 である、紅竜が宿るとされている。
その本体は南の国境にある社に祀られ、国にあるその他の神桜は、紅竜が力を分け与えた分身のようなものだった。
分身とはいえどもあのように根刮ぎ奪われてしまっては、紅竜にどんな影響が出るか分からない。
(……誰が何の目的で、こんなことやってるんだろう?)
香彩はそう思いながらも、酷く悲しい気持ちになって、頬を竜紅人の首筋に擦り付ける。
それに答えるように竜紅人は、香彩を抱き抱える力を強めた。
帰ろうと竜紅人に促されて、香彩がこくりと頷いてから、ふたりは今までずっと無言だった。
香彩は自分の名前の由来となってずっと親しみを感じていた神桜が、そして大切な唯一の花片が、消えてしまったことに寂しさと悲しさで心がいっぱいだった。
竜紅人もまた今の状況が分からず、しかも同朋が狙われているとあって、落ち着かないのだろう。
不安な気持ちを少しでも消したい、縋り付きたい、癒されたい。そして歩み出せる勇気がほしいと思ったのは、お互いに同時だったのか。
自然と降りてくる唇を、香彩はありのままに受け入れた。
触れるだけの接吻 を幾度か繰り返してから、舌を絡める。
やがて見えてくる中枢楼閣の灯火に、名残惜しくも唇が離れた。
銀の糸が引くのも構わず、見つめ合う。
伽羅色の向こうに見える情欲の焔。
「……りゅう……」
香彩の呼び掛けに、竜紅人はいつも通りの、にっとした笑顔を見せた。
だが、それはやがて……。
──ああ、変わる。
やがて四神の門を越えて。
竜紅人の身体が、蒼い鱗を持った竜の姿へと変化した。
(……りゅこうと……!)
罰が発動したのだ。
何故か堪らない気持ちになって、香彩は蒼竜の首筋に頬を擦り寄せる。
本来の大きさだった蒼竜は、人形 だった時と同じぐらいの大きさへと変わった。元の大きさでは中枢楼閣に入るのに苦労する上に、部屋になど到底入ることなど出来ないからだ。
蒼竜の顔がとても近い。
ぐるぐると喉奥で唸るような、蒼竜の声が聞こえてくる。その思念を読み取って、香彩は戸惑いの表情を見せた。
蒼竜は覗き込むようにして、香彩の顔を見つめていたかと思うと、長い舌を出して器用にも香彩の唇を舐める。
間違いではないのだ。先程の思念の読み方は。
自分と同じ深翠の瞳の中に見えたのは、ぎらついた欲の焔。
だが同時に不安そうに揺らめく瞳に、香彩はまるで魅入られるかのように、蒼竜から目を離せずにいた。
蒼竜は凹の形をした中枢楼閣を文字通り飛び越えて、中庭に向かって降下し始める。
あれ、と香彩は思った。
「……竜紅人、何でこんなに降りてるの……?」
自分の私室があるのは第六層目だ。だがもう蒼竜は四層目、三層目辺りまで降りてきてしまっている。それにもしも香彩の私室に帰るのであれば、六層目にある物見楼 に降りた方が近いことを、彼が知らない筈がない。
香彩は何となく察していた。
彼が何処に行こうとしているのか。
まるでそれを見計られたかのように、くつくつととか喉奥で笑う彼の声が、思念となって脳内に響く。
『──何処へ行くのか……何の為にそこへ行くのか。察しの良いお前なら、もう気付いただろう?』
そう蒼竜が話す間にも、彼は中庭へと降り立った。
既に日の落ちた中庭は、燈籠の灯りが幾つかあるだけなので、大層薄暗い。
だがこの燈籠の温かみのある灯火と、この暗さが良いのだと、執務終わりの官が時折、中庭に用意された長椅子に座り、深まる夜を楽しむ姿を見ることが出来るのだが、今宵は人ひとりいない。
香彩は蒼竜に分からないように、ほっと胸を撫で下ろした。
竜形は竜紅人が『真竜』であり『蒼竜』であることを示すものだ。人形 でも確かに神気が感じられるし、真竜なのだと理解しているのだが、いわゆる『真竜らしさ』が彼にはあまり感じられない。人以上に人臭いのだ、竜紅人は。
そう感じているのは、きっと香彩だけではないだろう。
竜紅人が『真竜』なのだと、改めて認識するのは、彼が『蒼竜』の姿を執った時だ。しかも最近は彼が『蒼竜』に成る機会も減った為、見つかれば良い意味で騒ぎになるに違いなかった。
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