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第92話 療 其の二
そう言って笑顔を見せる療 に、まるで釣られるようにして、香彩 もまた微笑む。
紫雨 の言っていることに、無意識の内に盲信的になっていた自分を、香彩 は不思議に思った。
紫雨 の声には、人を従わせる力でもあるのだろうかと思うほど、それが全てなのだと、それしかないのだと、自分の中で思い込んでいたのだ。そして紫雨 のことを考えると、何故かふるりと香彩 の手は震えた。療 に勘付かれないように、香彩 は握られた療 の手を、ぎゅっと握り返すことで誤魔化す。
「でもオイラに乗って行くんだったら、事前に竜ちゃんにだけは話、通しておいてね。オイラ変な八つ当たりされるのご免だし、香彩 だって変な嫉妬されるの、嫌でしょ。ま、竜ちゃんのことだから、話が出た途端に俺も行くって言いそうだけど」
そうなったらオイラも竜ちゃんに乗せて貰うし、と療 がけらけらと笑った。
竜紅人 に話をするのは、当然のことだろうと思う。彼もまた神桜のことを気にしていたし、何より真夜中に療 と中枢楼閣 を出ることを、黙っておくわけにはいかないと香彩 は思った。寧ろ一緒に来て欲しいのだと言おうと思った。
(……けど……)
(……その前に聞かなきゃ……)
自分の胎内 に一体何があるのか。
それが成人の儀と雨神 の儀に、どう関係しているのか。
(多分……療 も知ってる)
聞けば療 のことだ。教えてくれるに違いないと思ったが、それは筋違いだろうということは香彩 もよく分かっていた。
(……竜紅人 の口から、ちゃんと聞きたい)
再び震え出す手を香彩 は、先程よりも強い力で握って抑えようとした。だが今度は握り拳ごと震える手に、どうすることも出来なくなった。
きっと療 はもう知っている。
香彩 は療 からそっと視線を逸らせた。
まるでそれを見計らっていたのか、それとも待っていたのか。
小さくため息をつく、療 の声が聞こえたと思った刹那。
力強く握り締められていた手の、その片方が引っ張られる。気付けは香彩 の頬に固い物が当たった。そして頭に優しく添えられるものが。
それが療 の胸であり、手であることを悟った香彩 は、慌てて療 から離れようとした。
だが。
「──さっきからずっと震えてるの、隠してるでしょ?」
療 のその言葉に、びくりと香彩 の身体がまるで返事でもするかのように反応を示した。
「……で? 今度は何? あ、何でもないよ、は通用しないからね。きっと無意識なんだろうなって思ってたんだけど、オイラ震えてるの見ちゃったから、とっとと白状するように」
「……白状って……おかしいな。療 が僕に相談に来てたはずなのに」
「香彩 もオイラの様子がおかしいって分かったように、オイラもこの部屋に香彩 が入ってきた時に、何かあったなって思ったよ」
頭に添えられていた療 の手が、軽く香彩 を撫でる。
ほぅと吐息混じりに、敵わないなぁと呟きながら、香彩 は身体の力を抜いて療 に寄り掛かった。
今度は隠すことのない震えるその手で、軽く療 の服を掴む。
「療 にとったらさ、こんなことで悩むなんて、って思うことかもしれないよ」
そう香彩 が言えば、盛大に大きな療 のため息が、頭の上から降ってくる。
「今更感満載って感じなんだけど。この前まで竜ちゃんのこと、そんな感じだったの忘れてないよね香彩 。第一さ、どんな悩みでも『悩み』は『悩み』でしょ?」
療 の言葉に香彩 からの応 えはない。
「それに竜ちゃんの時は悩んでいたけど、こんなに震えてなかったじゃない」
「……」
香彩 、と療 が呼び掛ける。
念を押すように、そして勇気付けるように。
やがて、ぽそりと香彩 が呟いたのだ。
接吻 された、と。
「……それって、もしかしなくても……紫雨 ?」
応 えの変わりに、香彩 の身体が面白いようにびくりと震えた。
「あぁ……──それって儀式の前の、事務的なやつじゃない方ってことだよね」
療 の言葉に香彩 は、こくりと頷く。
確かに紫雨 は言ったのだ。
──ほんの一時 の夢であっても、慈しんだ花が手元に戻るとあれば、何としても離したくないのだと。心を砕くのは、間違いか……?
──ほんの一時 一夜の夢物語よ。ならばいっそ廃退的に酔い痴れてみるのも、一興。
と。
まるで箍が外れたような、情熱的な接吻 を思い出す。
あの熱さは想われてきた年数だ。
「療 ……僕は、僕が怖い。僕の心がとても怖い」
「……自分の心が怖いの?」
「だって……僕は竜紅人 が好きなのに、紫雨 のあの接吻 は嫌じゃなかった。気付けば自分から求めに行ってた。けど……やっぱり何処かで何か大切なものを失った気がして悲しくて、心がそんな風に思ったのに、ようやく得難いものを得られたんだって、心の何処かがそう喜ぶんだ」
だから自分の心の有り様が、どうしてそうなってしまうのか、分からなくて怖かった。
紫雨 のそれはまるで、香彩 の存在ごと全てを奪い去ってしまいそうな想いの熱さ、激しさだった。
一夜だけだと彼は言いながらも、先程はその激しさの片鱗を覗かせていて、このまま成人の儀を迎えてしまえば、自分の心がどうなってしまうのか分からなかった。
きっとその危うさを竜紅人 は、本能的に察知していたのかもしれない。だからこれでもかとばかりに、自身を香彩 に刻み込んだのだ。
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