療(りょう)にしか聞こえない程度の、小さな掠れた声色で香彩(かさい)が言った。 　療(りょう)の隠された気持ちに気付いてしまった今、療(りょう)に酷いことを言わせてしまっているのだという自覚はある。 　だが療(りょう)は、なんで香彩(かさい)が謝るの？　と、感情を割り切った上で、交わしてはぐらかせてしまう。 「──そんなことよりも、香彩(かさい)！」 　療(りょう)は少し勢いを付けて、首に抱き付いている香彩(かさい)を剥がし、両方の二の腕を掴んだ。 「今夜、夜半過ぎぐらいでいいかな？　中枢楼閣(ここ)を出ること、ちゃんと竜ちゃんに伝えてよね！　何ならもう強制同行させてよね！　オイラあとで変な八つ当たりされるの、本当ご免だし、鬱陶しいし、嫌だからね！」 　腕を掴み、香彩(かさい)の身体を揺すりながら療(りょう)が言う。 　香彩(かさい)は、分かった分かったからと、返事をしながらも、身体を揺すられるのが嫌で、咄嗟に療(りょう)の腕を掴んだ。 　その刹那。 　少憩室の引き戸を叩く音が聞こえた。 　 「──香彩(かさい)様、少し宜しいで……──」 　寧(ねい)の伺いを立てる声がしたと思いきや、まるで壊れてもいいと思える程の勢いで、開けられる引き戸。 　その音の大きさに香彩(かさい)と療(りょう)は、お互いの腕を掴んだまま、驚きのあまり固まった。 　 　ゆらり、ゆらり。 　ゆらり、ゆらり、と。 　引き戸を開けた尾が反動で揺れる。 　その動きが、やけにゆっくりと見えたのは気のせいだろうか。 　「……あっちゃ～……」 　まず先に我に返ったのは療(りょう)だった。香彩(かさい)の腕を離し、額を手で覆う仕草をした。 　療(りょう)が腕を離したことで自然と香彩(かさい)の腕も下がるが、その表情は固まったまま、引き戸の方を見ている。 　今朝、この陰陽屏に見送りという名の牽制を行った時と、同じ大きさの蒼竜が宙に浮いていた。 　張り詰めた空気と静けさの中、はたはたと、普段ならあまり聞こえることのない竜翼の羽ばたく音が、やけに大きく聞こえる。 　どうして六層目(ここ)にと、香彩(かさい)が心内で思ったその時だ。 　竜の低く唸る声がした。その声の振動に合わせるかのように、少憩室の空気が重くなる。胸の奥に鉛が溜まり、支(つか)えているような嫌な気分がしたと思いきや、重い衝撃がこの辺り一帯に広がった。 　蒼竜が抑えていた神気を解放したのだ。 「──りゅ……！」　 　療(りょう)が前に出ようとするところを、香彩(かさい)が手で制する。 　しゅるりと空気を切る音がした。 　蒼竜の尾の先端が、制していた香彩(かさい)の手首を捉え、くるりと巻き付く。何とか解こうと香彩(かさい)が手を動かすが、それは全くびくともしなかった。そして宙に浮く蒼竜もまた、小さな姿であるのにも関わらず、香彩(かさい)の手の動きに対して、びくともしなかったのだ。 『──『来いよ』、かさい』 　まさしくそれは竜の聲だった。 　戸惑いながらも、蒼竜の行いに腹立だしさを感じる。 　なのにこの身体は、蒼竜に従おうとする。従うことに悦びを感じている。その何とも言えない矛盾に、心と身体が引き離されそうだと香彩(かさい)は思った。　 　尾によって引き寄せられて、蒼竜の身体に近付く。 　その時だ。 　どさりと重い音がした。 　何かと思い香彩(かさい)は、音のした方へ向く。 「……っ、寧(ねい)……っ！」 　自分の副官が苦しそうに息を吐きながら、胸を押さえて倒れていた。 　強い神気を身近で浴び、当てられたのだ。 　駆け寄ってその身体を支えて起こしたい。頭の中でそう考え、自分の身体を動かそうとして香彩(かさい)は、改めて竜の聲というものを、竜紅人(りゅこうと)の制約というものを感じ取った。 　蒼竜は『来い』と言った。 　その言葉の『力』は継続されている。蒼竜は香彩(かさい)をどこかへ連れていきたいのだ。 　だからそれ以外の行動を取ることが出来ない。 　まさに存在そのものを、竜紅人(りゅこうと)という鎖で繋がれている。 　そんな香彩(かさい)の状況と寧(ねい)の状態に、療(りょう)が気付いた。 「──竜……！」 「駄目っ、名前呼んじゃ駄目だよ療(りょう)！　僕が……僕が何とかするから……だから」 　駄目だよと香彩(かさい)が言う。 　療(りょう)が竜紅人(りゅこうと)の名前を呼べばそれはもう、今の香彩(かさい)と同じ『縛り』だ。療(りょう)はずっと言っていたのだ。竜紅人(りゅこうと)を『力』で縛りたくないのだと。 (……療(りょう)には一度) 　蒼竜に拐われる前に『力』を使って貰っている。だからこれ以上、自分達のことで療(りょう)に『力』を使ってほしくない。 「だから……療(りょう)、寧(ねい)をお願い」　 　香彩(かさい)のその言葉に、療(りょう)が少し険しい表情を見せながらも、無言で頷いた。 　療(りょう)が寧(ねい)に近付き、話かける。 　荒い息を吐きながらも、寧(ねい)がそれに応える様子を見ていると、見るなとばかりに手首をぐいっと更に引っ張られた。 　腹立だしい気持ちを、ため息の中に籠めて吐き出す。 「……付いていく。ちゃんと従うから……その神気を抑えてよ。竜紅人(りゅこうと)」