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第95話 不穏 其の二

 宙に浮いたままの蒼竜に連れられて渡床(わたりどの)を歩く。手首にはまだ竜の尾が巻かれたままだ。ほんの少し歩みを緩めると、つん、と尾が香彩(かさい)を引っ張る。  まるで虜囚のようだと思った。  端から見ればさぞかし奇妙な光景だろう。  だが不思議なことに大司徒(だいしと)政務室を出て、渡床(わたりどの)を歩いている間、人に会うことはなかった。他の縛魔師達が働く陰陽屏の前を通り過ぎても、誰ともすれ違うことはない。普段ならば同僚が行き来し、相談者が訪れる渡床は、まるで深夜のように静かだった。  これが先程解放してみせた、蒼竜の神気の所為だとは思いたくない香彩(かさい)だ。もしかすると(ねい)と同じように、陰陽屏の中で神気に()てられた人がいるのかもしれない。もしくは上層の不穏な空気を悟って、他の官が上がって来ないのかもしれない。  誰にも会うことのないまま、湯殿を通り過ぎ、しばらくして見えてくるのは、大司徒(だいしと)私室だ。本来は紫雨(むらさめ)と同室だったが、今は蒼竜と同室になった、香彩(かさい)の私室だ。  ここまでふたりは無言だった。  蒼竜の神気は、香彩(かさい)が蒼竜に付いて来ることを条件に、今はその成りを潜めている。だが抑えられた神気の代わりに、蒼竜から感じるのは明らかな怒気だ。  そして香彩(かさい)もまた、蒼竜に対して苛立つ気持ちを隠せずにいた。本来なら狂おしいほどに悦楽を感じる、手首を締めた竜尾の痛みが、何処か煩わしい。  大司徒(だいしと)政務室とその少憩室という、謂わば大司徒(だいしと)司徒(しと)が否と言わない限り、そして招きさえすれば誰でも入ることが出来る場所で、蒼竜が神気を解放した。  刻にすれば短かったのかもしれない。  だがその短い間でも、神気に対してある程度の耐性があった(ねい)が、胸を押さえて倒れたのだ。  香彩(かさい)が蒼竜に従う代わりに収めさせた神気は、奇跡の『力』と崇め奉られるが、強すぎる神気は人にとって毒でしかない。人を護り、癒す『力』は、度が過ぎれば捕食関係の頂点に立つ種に相応しく、人を弱らせ、やがては抵抗出来なくなったものを、食らうためのものへと変わる。  まず初めに病むのは呼吸を司る器官だ。  胸を押さえ、苦しむ(ねい)の側に寄ることが出来ず、(りょう)に任せることになってしまった、先程の出来事そのものが、香彩(かさい)の心を乱し苛立たせる。同時に心の中に空いてしまったのは、小さいがとても深い深い穴だった。  公の場で、私用のために使われた竜の聲。  香彩(かさい)は心のどこかで衝撃を受けていた。  確かに自分は望んで竜紅人(りゅこうと)に縛られた。だがまさかこんな分別のない縛られ方をするなど、思ってもみなかったのだ。    後から考えれば目の前に次々に起こる出来事に、お互いに心の余裕が、思い遣る気持ちがなかったのだと分かる。  何よりもう少し考えた行動を取るべきだったのだと、後になって気付くのだ。  だが生まれ始めた亀裂は、少しずつだが確実に広がり、やがて音を立てて崩れていくことに、今のふたりは気付くことはない。  それが長い喪失の始まりだということも……。  

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