96 / 409

第96話 不穏 其の三         ──嗜虐心を擽る目──

 大司徒(だいしと)私室の引き戸を開けさせて、文字通り香彩(かさい)を部屋の中へと放り込むと同時に、尾できつく締めていた手首を解放する。  ふらつく香彩(かさい)を眼下に見ながらも、蒼竜は器用に尾を使い、わざと大きな音を立てて引き戸を閉めた。  その音に、びくりと香彩(かさい)の身体が怯えたように動く。  だが蒼竜を見るその深翠の目は、凛として毅い意志を湛えているようにも見えた。  自分を見据えるその色に、どこか酷く安心する蒼竜だ。竜の聲を使っても、香彩(かさい)の意思は失われない。たとえ蒼竜に従っても、感情を秘めた瞳が雄弁に語るのだ。決して傀儡ではないのだ、と。  喉奥で蒼竜が、くつくつと笑う。  そして竜瞳の瞬きひとつで、その大きさを人形(ひとがた)並みに変えて見せた。  蒼竜を見る香彩(かさい)の毅い瞳が、戸惑いでゆらりと揺れる。  自分とよく似たその色を真っ直ぐに見つめれば、すっと視線が逸らされた。表情に顕れている気まずさは、果たして無意識だろうか。  蒼竜の心の中に、冷えた一滴の水が落ちる。その波紋はやがて心全体に広がって、心は冷えきったもので満ちていく。 『──機嫌が、悪そうだな』  そう発した冷たい声色に、蒼竜自身が少し驚く。こんな声を出すつもりではなかった。だが心は感じた感情のまま、素直に声を出す。  香彩(かさい)もまたその声に、ぴくりと身体を動かした。視線は合わないままだったが、揺らめく瞳はあきらかに怒りの感情を顕にしている。 「……当たり前じゃないか。あんなところで神気を解放するなんて! おまけに竜の聲まで使うなんて」 『──ああ、(ねい)には悪いことをしたな。それは後で詫びに行く。ああでもしないと、お前は後ろめたくて、俺に付いて来ないだろうと思ったからな』 「……だから、寧の目の前で……! あんな……人質を取るような真似……!」  香彩(かさい)が再び蒼竜を見る。  毅い、毅い、その深翠の目。  紫雨(むらさめ)譲りの、その色と眼差し。  その目が狂おしいほどに愛しいのだと、思う自分がいるのと同時に、紫雨(むらさめ)に似た面差しを残す香彩(かさい)を憎らしいと思った。そして自分の血を分け合った存在がある紫雨(むらさめ)を、同じく憎らしいとも、羨ましいとも思った。 『その通りだと言えば、満足か?』 「──竜紅人(りゅこうと)」  『お前なら(りょう)も止めてくれると思っていた。流石にあいつに出られると、俺も分が悪い』 「──竜紅人(りゅこうと)っ!」  名を叫ぶ香彩(かさい)の語尾が、戸惑いの為なのか掠れている。 「(りょう)竜紅人(りゅこうと)に『力』を使いたくないって、ずっと言ってたんだ。なのにこの前、僕達の所為で『力』を使ってしまったから、これ以上使ってほしくなくて……なのにその言い方はないんじゃない?」  蒼竜は無言のまま、じっと香彩(かさい)の様子を見る。その無言を、話を聞いているのだと解釈したのだろう香彩(かさい)が、更に口を開いた。 「それに(りょう)は今日、僕に『()』て欲しくて来たんだ。ちょっと様子がおかしかったし、(ねい)が少憩室に案内したのも、無意識の内に神気が溢れそうになっていたからだし。確かにふたりきりになったけど、竜紅人(りゅこうと)が思ってることなんて何も──」 『ああ、そうだな』  香彩(かさい)の言いかけた言葉にわざと被せて、蒼竜が(いら)えを返した。そして一歩、また一歩と、ゆっくりと歩みを進めて香彩(かさい)の方へと近付く。  かつん、かつんと。  蒼竜が歩く度に室内に響くのは、鋭い脚爪が床に当たる音だ。敢えて強く踏み締めれば、音は更に大きくなる。それに反応しているのか香彩(かさい)の身体が何度か、ぴくりと動くのが見えた。  対する香彩(かさい)は、近付いてくる蒼竜から距離を置きたいのか、後退りをした。そうやって壁に追いやられていることに、逃げ道を失くされていることに、果たして香彩(かさい)は気が付いているのだろうか。  やがて香彩(かさい)の背中が壁に付く。蒼竜に向けるその目は、少し怯えた色をしていた。  だが瞳の奥にある、凛とした芯の毅さは失われていない。  嗜虐心を擽る目だ。  蒼竜はそう思いながら、気付けば無意識の内に竜の唸り声を上げていた。  捕食関係の頂点に立つ竜だが、蒼竜自身、生まれてからまだ一度も、鬼も人も口にしたことがない。口にしたいとも、思ったこともない。  香彩(かさい)(りょう)との出会いがあったからだろう。蒼竜にとって初めて出会った『人』も、実は半分竜であった『鬼』も、仲間であり友だった。  『人』に至っては禁忌を犯してまで思い詰め、(つがい)にしたいとまで思った想い人だ。  心ではそう思ってみても、竜形と化した竜は、より本能に近い反応をこの身体に示すのだろうと、どこか他人事のように蒼竜は思う。  経験したこともないというのに、分かってしまうのだ。  竜がどのように人や鬼を食らうのか。決して一思いに(とど)めを刺すことをせず、神気によって少しずつ少しずつ弱らせて、助けを求めて縋り付く様を見ながら、やがて満足して食らうのだと。  香彩(かさい)の目は、蒼竜の本能とも言える嗜虐心を煽る目だ。目の奥に見える凛としたものを見て、傀儡ではないのだと、とても安心するというのに、それを壊してしまいたくて堪らない。  壊して自分しか見るなと、竜の聲で命じてしまいたくなるほどに。 「……それに……」  更に言い募る香彩(かさい)の、追い詰められた小動物のような目が。怒りと怯え、不安と僅かな期待が入り交じった目が、蒼竜を見上げている。 (……本当に、こいつは)   嗜虐心を擽るいい目をしている。  凛然とした中にある幽かな揺らめきは、明らかに後ろめたさと嘘を語っていた。聞いてもいない(りょう)の話を、まるで弁解でもするかのように話をしていることを、香彩(かさい)自身は気付いているのだろうか。 「それに……僕より機嫌が悪いのは、竜紅人(りゅこうと)の方でしょ?」  香彩(かさい)の言葉に、蒼竜は軽く唸り声を上げる。  壁際に追い詰めた香彩(かさい)の顎に手を掛け、顔を上げさせた。蒼竜がその口吻(こうふん)を近付ける。一瞬息を呑んだ香彩(かさい)が、三本爪の竜の手を払い除けた。  だが蒼竜はそれに臆することなく、再び香彩(かさい)の顎に手を掛ける。今度は鋭爪の先端だけで、軽く触れるだけのような持ち方に、払うことを断念した香彩(かさい)が蒼竜を睨む。  そんな香彩(かさい)の様子に蒼竜は、喉奥でくつくつと笑ってみせた。 『流石に気付いていたか。……お前は俺の機嫌を損ねるようなことをした自覚はあるのか』 「……」  香彩(かさい)は無言だった。  だがその無言が肯定を示していることを、果たして香彩(かさい)は自覚しているのだろうか。  何が決定的に自分の機嫌を損ねたのか、蒼竜自身もよく分かっていなかった。ただ香彩(かさい)の言動に、その行動に酷く苛立ったのは確かだった。  香彩(かさい)の身体に纏わり付くのは、(りょう)の気配と紫雨(むらさめ)の気配だ。  ただ話をするだけでは、決してそこまで纏うことはない気配。  一体どこで何をしてきたのか。  現に少憩室で香彩(かさい)(りょう)は、互いの腕を掴んでいた。  分かっているのだ。  (ねい)からも話を聞いている。(りょう)の様子がおかしかったと。だから香彩(かさい)(りょう)を『()』ているのだろうと。  だがそれは理性上での理解だと、蒼竜は自覚していた。  おそらく無意識下では、快く思っていないのだ。  香彩(かさい)が報告をしに、紫雨(むらさめ)の元へ行ったことも。  (りょう)()ていたことも。 (──(りょう)はいい。だが紫雨と香彩(あいつら)は?) (こんなにも紫雨(あいつ)の気配を振り撒いて)  何をしていた?  納得し切れない部分が、少しずつ積み重なって、そして香彩(かさい)の言葉と僅かな抵抗が起爆剤となって、火の付いてはいけないところに火が付いてしまったのだと、蒼竜は己の内をそう分析する。 「……だけど僕、悪いことなんて何も……」 「ああ、確かに(りょう)のことに関してはお前は悪くない。悪くないが……」  お前の所為なのは、確かだよ。  蒼竜がそう言えば、香彩(かさい)の目がきつくなり、蒼竜を睨む。  紫雨(むらさめ)にとてもよく似たその目。  反抗的なその瞳を、自分はいつ振りに見たのか。 「……だから今すぐ、責任を取れ。かさい」  蒼竜の言葉に香彩(かさい)の瞳は、動揺に揺れながらも納得出来ないとばかりに、更に蒼竜を睨み付ける。  ああ、この瞳が自分の所為で潤むところが見たいと、そんな嗜虐心が頭をもたげた。 「……()かせてやる、かさい。()きながらその身に纏わり付いた、(りょう)紫雨(むらさめ)の気配、消してみせろよ」

ともだちにシェアしよう!