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第112話 花盗人 其の四
胸元から札を取り出す。
打つのは柏手 だ。
それだけで周りの空気が、変わる。
まるで水面に落ちる水滴が齎す波紋のように、柏手 から発する術力の波動が空間に広がる。
その『力』に、肉塊が身を固くし、動きを止めたことを確認してから、香彩 は今一度、柏手 を打った。
二度目の柏手に療 が、はっとして香彩 を見る。
柏手 は力を借りる者への挨拶だ。
一度は地に住まう地霊や精霊。
そして二度目は、真竜に加護を願う時に打たれるもの。
指に挟まれた不思議な紋様を描く札が、仄かな光を帯びる。
「伏して願い奉る。真竜御名 、皇族黄竜 、その御名において、我が呼応に力を貸したまえ」
香彩 の声に反応して、札が光を集めるかのように、皓々と青白く輝き出す。
『縛!』
『力ある言葉』を言い放ちながら、香彩 は指に挟んでいた札を地面に置き、軽く指を突き立てた。
術力と呼ばれる『力』が、肉塊に向かって地を這う。この術は一度、壌竜に破られていたが、今度は大丈夫だという確信があった。何せ黄竜の『力』を借りて、形成した術だ。
光は肉塊を中心に陣を描き始める。
そして地から生えた術力の鎖が、肉塊を雁字搦めに縛り付けた。
「大丈夫? 療 !」
ぎし、ぎし、と音を立てながら鎖を解こうと暴れる肉塊に警戒しながらも、香彩 は療 の側に寄り、声を掛ける。
無言でこくりと頷く療 もまた、変わり果てた姿になった壌竜 を、ただ見つめていた。
邪気を吸い込み堕ちてしまった、真竜だった肉塊 。
(……もうここまで堕ちてしまったのなら)
救いもなく、まるで人に危害を加える魔妖 のように、ただ払うしかない。
なんとか助けたいと思った。
だが嫉妬と後悔に苛まれたその心を、救い上げるには手遅れだった。きっと神桜の枝を際限なく折り始めた時点で、その中から一枝を手に入れた時点で、壌竜 の心は取り返しの付かないところまで堕ちていたのだろう。
「……一枝……」
ぽそりと香彩 がそう呟く。
ただそれだけの為に、と香彩 は思う。
それだけの為に堕ちたのかと。
だが自分も似たようなものだと、心の奥底で香彩 は自身を嗤った。自分もまた紅麗の装飾品の屋台で、量産されている神桜の綾紐に心を翻弄されたではないか。
どこにでもある綾紐だ。
だが竜紅人 がその手に取った時から、桜香 にそして香彩 に渡した時から、あの二本は特別な物になった。
あの綾紐が全ての始まりだった。
一線を超えてしまった、きっかけになったものだったのだ。
香彩 のその言葉に呆然と肉塊を見つめていた療 が、二の腕を掴んだ。
驚いて療 を見る香彩 の視界に、綺麗な紫闇が飛び込んでくる。
「……そうだ! 神桜の一枝だ! あの一枝に神桜を……紅竜の焔を介して、土神 が吸い上げた邪気を浄化できないか、香彩 !」
「それって……内側から……?」
壌竜 は神桜の一枝を持ったまま堕ちた。一枝は肉塊が取り込んだままのはずだった。
紅竜は火神 だ。
その焔は邪を払い灼き尽くし、天へと還る浄炎の焔だと云われている。
「うん。内側から邪気を浄化出来れば、土神はオイラの『中』に還ることが出来る」
「……」
紅竜の神気を借りて浄炎の焔を宿せば、邪気に冒された肉塊を払い、灼き尽くすことは出来るかもしれない。
だが真竜の魂 でもある『光』がどうなってしまうのか、香彩 は検討も付かなかった。
浄炎の焔によって洗い流されて、本来の『光』となるのか。
それとも灼き尽くされて天へと還り、別の何かになるのか。
香彩 は静かな口調で、療 にそのことを告げた。
療 は言うのだ。
何もしないよりはいい、と。
どちらにしろ、今の肉塊よりは救いになると。
香彩 は無言で頷くと、療 の願いを聞くために手を胸の前に合わせ、再び肉塊と向き合った。
直向きな深翠の瞳が、肉塊を、その奥に潜むものを『視 』る。
ぎしぎしと拘束の鎖を解こうとしていた肉塊の抵抗が、唐突に止んだ。
だが。
香彩 が肉塊に潜む神桜の一枝を捉えた刹那。
今までにないほどの肉塊の抵抗に、鎖が激しく揺れる。
その一部が綻びを生み、数本の触手が香彩 に向けて放たれた。
「──っ!」
香彩 は身を翻す。
だが触手の鋭い先端が、香彩 の腕を掠める。咄嗟に香彩 は自身の傷口を掴むが、その血は止まらない。
ぽたり、ぽたりと腕から手に伝わり滴り落ちる鮮血に、焦りの心が生まれる。
それをあたかも読み取ったかのように、鎖の綻びから更に現れた触手が、先を尖らせて香彩 を突き刺そうと迫る。
それを何とか避けながら、香彩 は療 から距離を取った。
「香彩 !」
「──こっちに来ないで! 療 !」
香彩 の制する声に、側に行こうとしていた療 が止まる。
いささか血を流しすぎたのだ。
腕の傷から溢れだした血は、今もまだ指先からぽたりと落ちている。
「だめだよ……いま、療 が血に酔ったら、壌竜 を還すこと、出来なくなるよ」
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