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第116話 光玉 其の一
子狐は香彩 を見上げると、首を縦に振り、頷くような動作を見せた。
「……銀狐 」
それは『魂 』だけになった魔妖 が、縛魔師の式として麾下に下りたい時の合図や、挨拶のようなものだった。
香彩 は思わず蒼竜を見る。
香彩 にとってそれは、小さい時から癖の様になっている『竜紅人 に許しを得る』無意識の視線だった。
紅竜の様子を伺うように、そちらをじっと見つめていた蒼竜が、香彩 の視線に気付く。
目が合ったのは、ほんの一瞬だけだった。
香彩 の視線など気付かなかったとばかりに蒼竜のその目は、療 に手渡された壌竜 の『魂 の光』を見ている。
心の中に冷水を浴びせられた気がした。
喉が渇き、銀狐の『魂 の光』を持つ手が、ふるりと震える。
だがその心のひやりとしたものが、逆に良かったのだろうか。どこかで甘えてしまいたくて堪らなかった心を、香彩 はこの時に切り捨てた。
(……ごめん。お前が教えてくれたのに)
『好き』であることを決して捨てたわけではない。だが今は『真竜の御手付 き』として、彼が望むものを与えられない。それだというのに自分だけ、たとえ無意識だとしても彼を求めるのは筋違いだろう。
香彩 からの応 えを待つ子狐に視線を移しながら、心内でそんなことを思う。
子狐自ら式にと願うのならば、香彩 にはそれを喜んで受け入れる準備があった。この子狐に自覚はなくても、あの夢床 で自分のことを助けてくれたのだ。『好き』という感情を残したまま、あの思考という名の泥濘 から引き上げてくれなければ、今の自分はなかった。そして『好き』でいながらも『好き』を信じて、今の蒼竜を切り捨てることなど出来なかっただろう。
「……でも、いいの? 一度式に下れば、しばらくの間は輪廻から外れるよ。それでも……いいの?」
香彩 の言葉に子狐が、それでいいのだと言わんばかりに、くゎいくゎいと鳴いた。意志の毅そうな瞳が、一層直向きなほど香彩 を見つめている。
香彩 はそっと銀狐の頭に手を置いた。
仄かに蒼白く光る香彩 の手。
その甲には不思議な紋様が浮かび上がる。
「──ここに約す。我が命に、如何 なる時も従に服せよ。然 すればこの燈尽きし時、望む命 を与えん」
蒼白い光がやがて子狐を包み込む。
くゎい、と高く鳴いた子狐は、まるで思い出したかのように、その口を開いた。
「我、銀狐は遠命になりて、如何 なる時も御前を離れず、主をお護りするとお誓いする。そして主の燈を頂きし時、主の望む約をひとつ結ぶことを、ここにお誓いする」
「……約す。主命を全うせしめよ」
子狐は再び、くゎいと高く鳴くと、その姿を光の玉に変えてみせる。光玉はやがて香彩 の手の平の中に、吸い込まれるようにして消えて行ったのだ。
香彩 は自身の内側に向かって、気配を探る。今まで感じられなかった銀狐の強い気配を身の内に感じて、確かに式に下ったのだと、香彩 は安堵の息を洩らした。
するとまるでその行く末を見届けたかのように、高らかに、だが苦し気に竜の咆哮を見せるのは紅竜だ。
「──紅竜!」
療 が叫ぶ。
ぐらりと。
巨大かつ優美な竜形が歪に傾き、地に倒れ込もうとしていた。だがその衝撃はなく、恐ろしいほどに静かだった。
それもそのはずだろう。
竜形が地に付く直前に、その姿は儚く消え、後に残されたのは光の玉だけだったのだから。
「……紅、竜……」
ぽそりと療 が呟いた。
まるでその声に応えるかのように、紅竜の『魂 』である光の玉は、療 に向かってゆっくりと飛んでくる。そして壌竜 の『魂 』と同じように療 の手の中に収まった。
身体が持たなかったのだと、この場にいる誰もがそう思った。たとえ祀られている神桜の本体が無事でも、分身 である神桜を傷付けられてしまったのだ。その数はどれほどのものなのか、想像が付かない。だが神桜の本体とその『魂 』にまで影響を及ぼすほどの数だったのだろう。
それほどまでの執着だったのだ。
土神 にとって、神桜の一枝は。
少女の、すすり泣く声を風の中に聞いた気がした。
そんな声ごと、療 は両手で二体の『魂 』を包み込む。
やがてゆっくりと、その胸の中へと納めていく。
「安らかに、還れ。壌竜 、紅竜」
療 の『中』に還った彼らは、再び新しい清らかな魂を持って、壌竜 、紅竜として還ってくるだろう。
それがいつのことなのか、人である香彩 には検討がつかないほどの、長い時間の果てなのだ。新しい壌竜 と紅竜を見ることは決してない。だからこそ安らかに療 の『中』へ還り、無垢な『魂 』を持って生まれてきてほしい。そして今度こそ幸ありますようにと、香彩 は願う。
香彩 と少し向こうにいる蒼竜が、療 の『中』へと消えて行くふたつの『魂 』をただ見つめていた。
ようやく納めた療 が、今にも泣き出しそうな、それでも微笑んでいるかのような、複雑な表情を香彩 へと向ける。そして香彩 の肩を軽く叩き、何かを話そうとしたその時だ。
ぽつり。
ぽつり、と。
香彩 の肩を、療 の手を。
そして蒼竜の身体を叩くのは。
兆しの雨だ……。
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