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第117話 光玉 其の二

   忌々しいとばかりに、蒼竜が首を伸ばして空を見上げて唸る。つられるようにして、(りょう)香彩(かさい)もまた空を見上げた。  この時を待っていたのだと、言わんばかりに降り出した雨は、まだぽつぽつといった具合だった。だがひやりとした空気を含んだ風が吹いてきたことにより、香彩(かさい)の身体はふるりと震え、身を固くする。決して寒いばかりでないその意味を、(りょう)もそして蒼竜も理解していた。  帰らなければならない。  この雨は。  この絹糸のような優しい雨は、春の訪れを告げる雨だ。雨神(うじん)の儀の兆しである、春冬(しゅんとう)長雨(ながさめ)の始まりだ。  この国行事に間に合うように行われる、成人の儀。  確かに紫雨(むらさめ)は言ったのだ。  ──先程言った通り、期限は二日だ。だが事態が動き次第、この期限は無いものと思え。もし調査に出ているのであれば迎えに行く。  ──そのまま儀式に移るだろうから、心積もりはしておくことだ。香彩(かさい)。  事態は動いた。  雨神(あまがみ)が止めていただろう兆しの雨は、少しずつだがその強さを増しているようにも思えた。  雨神(うじん)の儀は長雨が降り、やがて『覚醒の颶風(ぐふう)』が吹いてから七日後の早朝が吉日とされている。  嵐のような強い風が吹く前に、成人の儀を速やかに終わらせなければならない。 (──その訳を僕は……)  まだ知らないままだ。  香彩(かさい)は歩き出す。  真っ直ぐに、岩の上に留まっている蒼竜に向かって。  (りょう)香彩(かさい)の名前を呼ぶが、香彩(かさい)は聞こえない振りをした。いま(りょう)の顔を見てしまったら、心が揺らぐような気がしたのだ。 「……竜紅人(りゅこうと)」  蒼竜の前に立ち、香彩(かさい)がそう呼び掛ければ、蒼竜が近付くなとばかりに軽く唸って香彩(かさい)を見上げる。  吐く息は、まだ荒いままだ。  竜紅人(りゅこうと)と、香彩(かさい)はもう一度、彼を呼ぶ。  蒼竜の威嚇するような唸り声に、拒絶されているのだと思わず怯みそうになるが、香彩(かさい)は何とか震える口を開いた。 「──僕の胎内(なか)に何があるのか、教えてほしい。竜紅人(りゅこうと)」 『……っ!』   竜形にその姿を変えても、彼の竜顔は雄弁にその心内を語るようだった。  香彩(かさい)と同じ深翠の竜眼は大きく開かれ、荒々しく()いていた息が呑まれる。そして威嚇のような唸り声もまた、忘れてしまったかのように聞こえなくなった。  かた、かた、と。  石と石とが、ぶつかり合うような音がする。  それが蒼竜の前肢が震え、鋭爪と岩とが(こす)れ合い、ぶつかり合う音なのだと知った時、香彩(かさい)の胸中に聞かなければよかったと、少しばかりの後悔が生まれた。      何かあるのだと言っているも同然のその姿。あからさまに変わった蒼竜のその姿に、香彩(かさい)は思う。 (……僕の胎内(なか)に何が……)  何があるのだというのだろう。 「──竜紅人(りゅこうと)が何かした……の? その所為で成人の儀が早まった?」  香彩(かさい)の言葉に、蒼竜はその竜眼を細めた。  開かれる口吻(こうふん)からは鋭い牙が見える。  僅かな沈黙のあと、再び彼は荒々しい息をつきながら、やがて言葉を紡ぎ出そうとした。 『……』  その、刹那。 「──……っっ!! なん……でっ……!」  困惑し、張り詰めた(りょう)の声が、静けさを切り裂いた。  慌てて香彩(かさい)と蒼竜が、(りょう)の方へ向き直る。  それは本来であれば、有り得ない光景だった。  苦し気に手で押さえていた胸から、ふたつの納めたはずの『(こん)の光』が見え隠れしていた。(りょう)はそれを自身の『中』へ押し戻そうとするが、反発でもするように弾かれて、勢いよく宙へと舞い上がる。  やがて見つけたとばかりに、ふたつの『(こん)の光』は、競うように真っ直ぐに飛ぶのだ。  香彩(かさい)に向かって。 「──えっ?」  威嚇する蒼竜の咆哮を聞きながらも、香彩(かさい)は何が起こったのか分からないまま、こちらに向かってくる『光玉』を、ただ茫然と見つめていた。  (りょう)の『中』に納まったはずの『(こん)』が、何故(りょう)から出て、こちらに向かってくるのか。  そんな疑問が頭の片隅を掠めたが、それはすぐに霧散する。  ふたつの『(こん)の光』のひとつが、僅かに香彩(かさい)の腹に触れたところで、それらを掬い上げるようにして拾う、たおやかな白い手があったからだ。 「──……っ!」  がくりと足の力が抜け、香彩(かさい)はその場に座り込む。  『力』の根本たるを吸われたような、奇妙な感覚がした。  ああ、喰われたのだ、と。  そう自覚した途端、『光』の触れた部分が熱く感じられた。香彩(かさい)は無意識の内に、自身の腹を庇うように手で押さえる。 『……また縁が繋がったえ。ほんに、みっつとは。罪深き若竜(じゃくりゅう)え』  聞き覚えのある声に、香彩(かさい)は気配の感じるがままに、上を見上げた。  認めたその姿に、思わず息を呑む。 「……どうして……?」  香彩(かさい)の言葉に薄っすらと笑みを浮かべるのは、本来では正式な召喚を踏まなければ、姿を顕すことのない真竜だった。  降り出した雨が香彩(かさい)の頬を、ぽつり、ぽつりと叩く。  この兆しの雨を(もたら)すもの。  春の訪れと生命を司る竜、雨神(あまがみ)が顕現していた。    

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