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第119話 発情 其の一
え……。
香彩 は口の中でそう呟いた。
頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。
だがそれすらも掻き消すかのように聞こえてきたのは、蒼竜の咆哮と、療 の雨神 の名を呼ぶ怒号だった。
二体の神気の籠った竜声に、媒体を介せずに現実 に顕現していた雨神 の姿は、まるで白い煙が強い風によって飛ばされ、辺りに混じり合うかのように、消えていった。
あとに残されたのは、駆け寄ってくる療 の足音と。
蒼竜の荒々しい息遣いだけだ。
「……竜紅人 」
香彩 は何も考えられずに、愛しい人の名前を呼んだ。
ただそれだけだった。
彼なら説明してくれるだろう、欲しい言葉をくれるだろうと思っていた。
香彩 が呼ぶのは自分にとって、唯一の存在だ。
だからだろうか。
余計なことを考えたくなかったのは。
彼がくれる答えを、話してくれる内容を信じて受け入れたいと思ったのは。
「竜紅人 ……」
だが嫉妬と罪悪感に苛まれた蒼竜にとって、何も聞かず、責めもせず、ただ名前を呼ばれることそのものが、何よりの衝撃であり責苦だったのだと、香彩 が気付くのはもっと後になってからだ。
「香彩 ！ 違う……違うよ！ 竜ちゃんは……──っ!?」
療 が雨神 に見せたあの怒号の勢いのまま、香彩 に何かを言い掛けた、まさにその刹那だった。
すん……と。
嗅いだその匂いに、香彩 は無意識の内に息を呑んだ。不自然に言葉を止めた療 もまた、息を呑む。
それは森の木々のような匂いから、甘い芳香を放つ春花のような匂いへと変化していく。
「──……っ！」
香彩 は思わず衣着の袖口で、鼻と口を覆った。
ほんの僅かに吸いこんだだけで身体が熱くなり、尾骶が鈍く疼く。身体の一番奥の蕾の更に向こう側が、熱を求めて熱く熟れ、蜜を滴らせつつあることに、香彩 は戸惑った。元々濡れる器官ではないはずだ。だというのに、この濃厚ともいえる芳しい香りを嗅いだだけで、訪れた身体の変化。
「……香彩 、ゆっくりと後退り、出来る……？」
香彩 の側に寄った療 が、小さな声でそう言った。
「療 ……？」
「匂いが変わったの、分かるでしょう？」
療 の言葉に香彩 は無言で頷く。
そして療 の動きを真似て、香彩 はゆっくり、ゆっくりと後退した。
視線は蒼竜の方を向いたままで。
蒼竜は低い唸り声をずっと上げていた。
時折吐 く息は、先程よりも荒々しい。
やがて。
普段の咆哮よりも、甲高い竜の咆哮が辺りに響き渡った。
そのあまりの音に、香彩 は思わず耳を塞ぐ。
今までに何度か蒼竜の吼える声を聞いたことがあるが、この咆哮は初めて聞く声だった。
瞬く間に蒼竜は、その大きさを元の姿へと変えてみせる。そして何かを探すように、その太い首を動かせてみせるのだ。
「……匂いの変化。独特の咆哮……間違いない。雄の発情期だ」
「発情……期……？」
「御手付 きを得た真竜は、大体半年から一年ほどで発情期を迎えるんだけど……実は竜ちゃん、紫雨 に対する嫉妬でずっと発情期に近い状態だったんだ。心当たり、あるでしょう？」
「……っ！」
香彩 は言葉を詰まらせる。
思い当たることが有り過ぎだと、御手付 き以上に甘い芳香を漂わせた蒼竜の様子を伺いながら、心内で思った。
お互いがお互いのことを想っていたのだと分かってから、人形 だった時も竜形だった時も竜紅人 は、肉欲に対してまるで歯止めが効かなくなったかのようだった。この数日の間に幾度も幾度も、蒼竜の熱に身体の最奥を灼かれ続けたのは、嫉妬からだということも香彩 は理解していた。
真竜の蜜月とも呼ばれるこの期間に、違う男に足を開く自身の御手付 きに、これでもかというほどの熱を注ぎ、匂いを擦 り付けたかったのだろう。
それでも蜜月を迎えられない真竜の本能は、満たされることはない。渇いて渇いて仕方なく、渇きを静める為に分別を失くし始めた蒼竜から、香彩 は敢えて離れる選択をしたのだ。
今はどうしたって、彼の本能に応えることが出来ないと分かっていたから。
「──壌竜 に同調しちゃったのか、それとも雨神 に止 めを刺されたのか……せめて成人の儀の後なら、はい、いってらっしゃいって、オイラ、香彩 を送り出したんだけどね。真竜の発情期、自身の御手付 きにしか抑えられないし、治められないんだよ」
「……それって……今は駄目だって、こと？」
「……」
療 は複雑な表情を浮かべながら、無言で蒼竜を見つめていた。やがて何かに吹っ切れたように、小さく息をつく。
「本当なら竜ちゃんから聞くべきことなんだろうけど、あの状態になってしまったら、ある程度熱を発散させないことには、言葉なんて届かないだろうから……オイラから言うね香彩 」
こくりと香彩 は無言のまま頷く。
蒼竜の様子を伺いながら、ふたりは更に後退を続けた。蒼竜は何かを探すように頭を動かしていたが、それだけだ。なるべく刺激を与えないようにする為なのか、時折息を詰めながらも、囁くような声色で療 が言葉を紡ぐ。
「真竜の雄は発情すると、近付くなっていう意味を込めて、欲声を上げて他の雄に知らせるんだ。神気の匂いも発情期独特のものへと変わる。そしてその匂いは御手付 きを、半ば強制的に発情させる効力がある」
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