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第136話 成人の儀 其の二 ──親愛と情愛の狭間──
「──白虎。このまま皇宮母屋 の裏手まで駆けて降ろせ」
紫雨 の艶のある低い声がした。命じることに慣れた口調で彼がそう言うと、白虎は応 えを返すように獣の咆哮を上げ、高度を落とした。
皇宮母屋 という言葉を聞いて、香彩 の心の中に、何やら冷たいものを一滴落とされた様な、そんなひやりとした気分になる。
皇宮母屋 は、城の中心部になる中枢楼閣と呼ばれる建物の、北側に建つ楼閣だ。それは三層から成り、一層目には国の祀りの全てを行う潔斎の場が。二層目には大宰 政務室とその私室が。そして三層目には国主の政務室と私室が存在する。
『成人の儀』が行われるのは、一層目の潔斎の場と呼ばれる場所だ。先日、紫雨 から大宰 政務室へ召致された際に、見てしまったものを香彩 は思い出す。
場の中央付近の床に、紅筆で描かれた四神達の陣。そして四神の陣の中央、潔斎の場の真中 ともいえる場所に敷かれた、白い敷包布。
(……あの場所で……今から……)
あの敷包布の上に横たわり、身体を拓かれるのだ。
そう思うだけで、どんなに覚悟を決めても無意識の内に震える手に、香彩 は己を嗤う。
雨が降っていて良かったと、この時初めて思った。雨に濡れた身体は、例え震えていても寒いのだと誤魔化しが効く。
「……うら、て……?」
紫雨 に聞こえる程度の小さな声で、香彩 はそう言った。低く掠れた声で、ああ、と応 えが返ってくる。
「裏門から中に入る。表門からでもいいが、お互いに濡れ鼠だ。禊場までの渡床 を水滴だらけにするのは忍びない」
そういえば皇宮母屋 の裏手には、人一人が出入り出来る程度の小さな門があったことを香彩 は思い出す。だが表門を使うことが多かった香彩 にとって、裏門が第一層のどの位置になるのか、正確に把握しているわけではなかった。
「それに禊場へは裏門から入ってすぐだ。震えるお前を見ていると、なるべく早く温めてやりたくなる」
「……っ」
紫雨 の大きな手で抱き寄せられ、掴まれている二の腕に、ぐっと力を込められて、香彩 は思わず息を詰めた。
確かに身体は冷え切っていた。だから余計に紫雨 の手から感じる体温が、ひどく熱く感じられるのだろうか。
何処か居心地が悪いと思った。
だがその熱から、もう逃げることが出来ないと言うのなら、彼の隠された想いごと受け入れてしまった方が楽になれる。
心が、苦しいのだ、と。
親愛と情愛の狭間で引き裂かれて苦しいのだと、心が訴えていても。
(……今からこんな状態で、どうするんだろう)
精を通じて、彼が持つ四神と護守を受け取るというのに。
肌を合わせるというのに。
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