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第137話 成人の儀 其の三 ──下知──
ふるりと震える身体に、紫雨 が小さく息を付く
そして不意に。
空いている右手を、香彩 の衣着の胸合わせ目に差し込んだのだ。
「……っ」
どくり、と。
生々しくも脈打つ胸を、紫雨 に気付かれてしまったのではないだろうか。そう思ってしまう程に、衣着越しに感じた紫雨 の手の熱さに、香彩 は酷く動揺する。
やがて軽く探るような手の動きを見せていた手が、すっと抜かれた。
現れたのは、いつも胸元に携帯している、術力を媒体する為の札だった。その中の一枚、白地に紅筆で紋様の描かれたそれは、式を飛ばす為のものだ。
術力を伴った『力ある言葉』が札に向かって放たれる。札は生き物のように形を変え、やがて蒼白く仄かに光る大きな鳥へと、姿を変えた。
「──行け」
式鳥と呼ばれるそれは、紫雨 の命ずる言葉に高らかに鳴いて応 え、彼の手から飛び立つ。
今のは一体誰に向けて放たれたものなのか。
香彩 は、視線を紫雨 の方へと上げた。
虚空へと消えて行く式鳥を、じっと見つめていた紫雨 の視線が、当然のことのように香彩 へと向けられる。
お前の言いたいことは分かっていると言いたげな、いつになく柔らかい瞳と吐息に、香彩 は心の臓が跳ね上がるような、そんな心地がした。
そんな香彩 の様子に耐えられなくなったのか、くつくつと笑いながら紫雨 は、その鼻梁に軽く口付ける。
「寧 への先触れだ。この雨に気付いて、色々と仕度をしていただろうからな。今から戻るという伝令と、潔斎の場の……」
人払いを、という下知を出した。
一層低くなった紫雨 の、艶のある声が香彩 の耳元を擽る。そのまま軽く耳輪を啄むように接吻 を落とされて、思わず上がる声を、自身の口を手で押さえることで、何とか堪える。
蒼竜と離れたことによって、強制的な発情状態は解除されたが、名残がないわけではない。少し刺激されれば再び戻りそうな、身体の奥深くにある燻った熱の予感に、香彩 の身体は再びふるりと震える。
祀りや儀式の準備は縛魔師の仕事だが、縛魔師の中でも特に、感覚の鋭い者数人で行われることが多い。普段であれば大司徒 と司徒 、その副官と数人の縛魔師だが、あの儀式は大司徒と司徒が抜ける為、大司徒指示の下 、副官である寧 が指揮を執っているのだろうと思われた。
その寧 に潔斎の場の人払いを命じた。
それが一体どういう意味なのか、十二分に分かっている。
風はもう吹き始めている。
覚醒の颶風が起きる前に、全てを終わらせなければならないのだから。
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