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第141話 成人の儀 其の七 ──禊場の湯殿──
そこは見慣れたはずの禊場の湯殿だ。
厚手の敷物が湯処まで続いているおかげで、足の裏が冷たいと思うことも、滑りそうだと思うこともない。
湯殿全体と湯槽は、良い香りのする木で作られている。湯気と混ざったその香りは、気分を落ち着かせてくれる。
普段であれば。
いつも祀りがある時に使う禊場だというのに、そこに彼がいる、たったそれだけで、どうしても居た堪れない気持ちになった。
香彩 の気持ちを知ってか知らずか、紫雨 は湯槽の角に陣取り、両腕を湯槽の縁に沿わせるように投げ出して、目を瞑っている。
彼のあの深みのある翠水が見えない。
たったそれだけのことだというのに、場の空気が全く違うことに、香彩 は無意識の内に息をつく。
紫雨 のいる場所から少し離れた湯槽の角から、香彩 は湯に入った。湯の温かさが強張っていた身体を、優しく解してくれているかのようだ。だが同じ湯に入る彼を意識しているのか、ほぉうと息を吐き出せばそれは震えていて、思わず噛み殺す。
紫雨 が目を閉じていることをいいことに、香彩 はじっと彼を見ていた。いずれ紫雨 は香彩 の視線に気付いてしまうだろう。そうすればついにこの心は、落ち着かなくなる。分かっているというのに、どうしても目で紫雨 の姿を追ってしまうのは何故なのか、分からない。
見ていたいのだと思うのか、分からない。
香彩 、と。
艶のある官能的な低い声で、彼が呼ぶ。
紫雨 にとって、ただ呼び掛けただけに過ぎないだろうその一声は、まるで傀儡の糸だ。身体の力が抜けてしまい、自分の意思で動かせなくなってしまいそうで恐くて、香彩 は応 えを返すことなく、奥歯を噛み締めた。
紫雨 が香彩 を見る。
「──……っ!」
先程とは、がらりと変わったその目に、息を呑む。
明らかに欲を伴った、ぎらついた深翠がそこにはあった。身体の奥に抱えていた熱が、一層高まるのを感じて、ぞくりと震えた背筋を誤魔化すように身じろぎをする。
だがここは湯の中だ。
ちゃぷん、ちゃぷん、と。
湯は正直に香彩 の様子を、紫雨 に伝えているかのように揺れるのだ。
「そう、恐がるな香彩 」
「……っ」
恐がってなんていないと、心の中でどんなに強気で叫んでみても、身体は正直だ。
自分でもさっき認めたばかりなのだ。
紫雨 が恐いわけじゃない。
あなたが隠し持つ熱の、篤 さが恐いのだと。想われた年数の深さが、その情が恐いのだと。
「お前が、誰の庭に咲く花なのか、分かっているつもりだ。だが……」
ぎらついた瞳のまま、彼は柔らかい笑みを香彩 へと向ける。
それは香彩 にとって、初めて見る表情だった。
欲を孕んだ瞳はそのままに、慈愛の笑みを浮かべる彼。その笑顔ひとつで、自分の存在全てを奪われ、捕らわれた気がした。
「だが……ほんの一時、ほんの一夜に、慈しんだ花が手元に戻ってきたのであれば、愛でようと思うのは」
間違いではあるまい……。
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